「十年ひと昔」とは、物事を振り返る際に耳にする言葉ですが、最近では「五年ひと昔」や「三年ひと昔」とも言われるように、変化のスピードがどんどん早くなっています。
倫理法人会員のF氏は、先日、昔なじみの倫友に五年ぶりに会いました。お互いの近況を話しているうちに、五年前に共に活躍していた会員の方々の話題へと移りました。
「Hさんの会社は、地域でも評判の企業に成長していますよ。Sさんのところは、活力朝礼を導入して、ますます会社が良くなり、支店が20店舗以上になりました」
「それはよかったですね。ところで、KさんとMさんはお元気ですか」
「ああ、あのお二人ですか。Kさんは退会したんですよ…。取引先との間で契約上のルール違反があったとかで、会員も辞めたんです。Mさんのほうは、癌が発覚し、それで会社の成績も落ち込んで、ついには倒産に追い込まれてしまったんです」
それぞれ五年前はF氏と一緒に活動していた仲間でした。先の二人(Hさん、Sさん)の吉報は何よりの喜びですが、後の二人(Kさん、Mさん)の様子は心が痛むばかりでした。同じように純粋倫理を学び、実践に励んでいたのに、どうしてこれほどまでに差がついてしまったのでしょうか。
思い当たることは、繁栄をしている二人は、とにかく心がすなおでした。MSや講演会で聞いたことや倫理的なアドバイス等は、まっすぐに実行していたのです。
一方で、後の二人は、共になかなかのやり手といえる人物でした。しかし、やり手であったがために、倫理を学びつつも最後のところで、すなおに成り切れません。自分を無くしきれず、倫理にどっぷりと浸るところが乏しかったのでした。
現代社会は、様々な経営セミナーや勉強会であふれています。そんな中にあって、倫理法人会は「純粋倫理」を実践し、倫理に則った生活を送ることにより、永続的な繁栄を目指す会です。
すなおな実践は、時に目には見えざる大自然とつながり、大自然からの限りない力を受けることに至ります。そして不思議ともいえる奇蹟的体験(繁栄)が得られる場合があります。これこそが倫理法人会に入会し、純粋倫理を実践する醍醐味といえるものです。
自分一人の力など、せいぜい知れたものです。自己を無くしきれずに、自分の力で何とかしようとする間は、この倫理の不思議さを味わうことはできません。
『万人幸福の栞』の十七カ条は、どの条もそれぞれの状況で、すなおになる方途が書かれています。その中でもとりわけ、すなおな自分に至る最短の実践項目は、両親に対するものです。これまでいろいろあろうとも、最後はすなおに従う生活を送ることです。
縁あって出合った、この奇蹟に至る道を無駄にせず、大切に活かしていきましょう。
月別アーカイブ: 2014年4月
純粋倫理を活用し物事を正しく見極める
倫理法人会は日本創生をスローガンに掲げています。「創生」とは単なる再生ではなく、創造的に生まれ変わることを意味します。
大きな変動期の中では、歴史や先人から真摯に学ぶことが大切です。また、日本が存在する意義を確立していかなければ、国際社会で生き残ることは出来ないでしょう。
経営者をはじめとしたリーダーが、純粋倫理にある生活法則を学んで実践し、自己革新していくことを通じて、企業や家庭をより良くすることができます。ひいては、地域社会を、さらには日本をより良くするための諸活動を展開していけるのです。
純粋倫理は、実践すれば結果が現われる生活法則です。世間一般的な倫理道徳は、先人たちの叡智の結晶です。現代において大いに役立つものがある一方で、その成果が限定的であったり、具体的な事象に対してどう対応するかという点でわかりにくかったりするものもあります。純粋倫理は、誰もが実践すれば幸福になる法則です。つまり、「わかりやすく、いつ、どこで、誰が」行なっても結果が現われるということです。そして、その核となるのが、「心の有りよう」なのです。
ある産科医院に早産の赤ちゃんがいました。未熟児のためか、泣声に元気がありません。授乳時には少ししか飲まないので、母親も心配で母乳の出が悪くなることもあります。こういう時、看護師が掛けるひと言が状況を変えることがあります。一度の授乳で、50㏄飲んでほしいところを、10㏄しか飲まなかったとします。その際、看護師が、「10㏄も飲めて、良かったわね」と声を掛けます。すると母親は、安心し、希望を見出すのです。母乳もよく出るようになり、赤ちゃんも少しずつ授乳の量が増えていくというのです。これは看護師のひと言が母親の心に光をもたらし、状況が好転したという一例です。
人の行為は、心の有りように基づいているといえます。すなわち、行為の結果を握っているのは、その主体である人の心なのです。
純粋倫理では、その心を様々な実践を通じ、「純情(すなお)」な心に磨いていきます。その実践の指標として、「明朗【ほがらか】、愛和【なかよく】、喜働【よろこんではたらく】」という三つを掲げています。純情ということを重要視するのには、いくつか理由があります。
一つ目は、純情な心は、物事を正しく見る土台となります。欲やエゴによって心が曇っていたり、歪んでいたりすると物事を正しく見抜くことは出来ません。
二つ目は、その純情な心が包含している明朗な心が、必要な人や物を引き寄せていきます。この二点だけを見ても、純情な心がリーダーにとっていかに重要であるかが理解できるでしょう。
そして、これらは、多くの倫理法人会員の実践によって、証明されているのです。
激変する時代の中で、リーダーとしてどのように脱皮していくかに、企業の盛衰がかかっているといえます。純粋倫理を活用し、より良きリーダー力を発揮していこうではありませんか。
職業の意義を知り新たな目標に立ち向かう
元プロレスラーのY氏は、現役時代、練習や試合後、腰が痛い日々を送っていました。
その旨を仲間に伝えたところ、ある治療院を紹介してくれました。その治療院は有名な格闘家や相撲部屋のトレーナーでもありました。一回や二回診てもらっただけでは良くなるとは思っていなかったY氏は、半信半疑な気持ちで治療を受けました。ところが、たった一回の治療で劇的に腰が楽になり、その治療に深く感動したのでした。
本来、格闘家は、人の体とぶつかり合うために自分の体を鍛え、技を磨いていきます。しかし、ぶつかり合った結果、自分の体を痛めてしまった場合、痛めたところを治しながら、練習して試合に臨むことになります。
治療院の先生は「治すこととぶつかることは一緒であって、どれだけ人間の体を知っているかが大事なのです」と言いました。Y氏は、先生の興味深い話に、整体治療に関心を持つようになっていきました。
格闘家を五十歳・六十歳まで続けられるわけもなく、四十歳前後で区切りをつけて、その後は治療院を開業したいという思いが募っていきました。その後もY氏が患者として治療を受けながら、本当に困ったり落ち込んだり、もうプロレスができなくなるというところまで追い込まれた時にも救ってくれたこと、また体を良い状態に治療してくれたことに対して、心の底から感謝することができたのです。
Y氏は、現役生活を続けながら医療関係の学校へ通い始めます。〈勉強をし、自分の体や後輩の体の状態を治療し、事故や怪我に対応できるようになりたい〉という思いが強まっていったのです。
Y氏が第二の人生を決めるにあたって、大きなきっかけがありました。仲間が道場で練習中に頭を打って亡くなる場面に遭遇したのです。強い衝撃を受けたY氏は改めて、プロレスラーは、危険な職業なのだということを再認識させられました。〈自分自身も残りわずかな現役生活であるが、死に関わるような事故につながることがあるかもしれない〉という思いがよぎりました。そして、〈このような事故を二度と起こさせない〉という思いから、引退後に治療院を開業すると心が決まりました。
Y氏の引退の日が決まり、三カ月後に引退試合をすることになりました。その日から、現役生活を続けながら治療院を開業する準備を着々と進めていったのでした。
倫理研究所の創設者・丸山敏雄は「『はたらき』の目標が決まり、軌道に乗った、これを『職業』と言う。職業がその意義に徹し、これを楽しむとき、これを『天職』という」と述べています。新たな目標に進む際、今就いている仕事を天から与えられた尊い仕事であると自覚することが重要なのです。『天職』の自覚は、仕事に対して惚れ抜いているかです。命をかけて打ち込み、惚れ抜いて働くことが人生最高の生きがいと言えます。
自分の使命を決して疎かにせず、今やるべきことに全力を尽くすのです。一歩一歩着実に、歩んでいきましょう。
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
4月5日 「つい、人間は弱気になってしまう時がある」
つい、人間は弱気になってしまう時があります。人間は頭が良い
ので、頭の中で勝手に「出来ない理由」を考えてしまうのです。
「決意する時は頭で考えないことが大切や」と、幸之助はよく言っ
ていました。いつも全身で決意していたのです。
「決意は、魂で『こうする』と信じ、実行してこそ実現するものだ」と、厳しく教えられたものです。
親や先祖への感謝を深め毎日を明るく生きよう
JR三大車窓の姨捨駅周辺にそびえ立つ姨捨山は、長野県千曲市と筑北村にまたがる山で、民話の里としても有名な地域です。
山頂には、冠着神社を祀る鳥居とトタン屋根の祠があり、祭神は月夜見尊で、山頂で蛍が舞う七月に氏子が登って御篭もりをする祭りが開催され、高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」の句碑もあります。
姨捨山には伝説があります。平安時代の歌物語として残っている『大和物語』が起源とされます。鹿児島県の甑島(こしきじま)にも、姨捨に似た民話が伝承されています。
昔、貧しい村や農家では、食い扶持を減らすために、お年寄りを山へ捨てに行く習慣がありました。その村に、母親と息子の二人で住んでいる農家がありました。ある日、息子は村の掟により、年老いた母親を山へ捨てるため、リヤカーに乗せて、近くの山の頂上目指して登っていきました。登山の途中、後ろで枝が折れるような音が何度かしましたが、気にも留めずに頂上までたどり着くと、辺りは真っ暗になっていたのです。息子は、頂上に年老いた母親を置き去りにし、真っ暗な道を下山しはじめました。すると、道の途中途中の枝が折れているのに気づきました。実は、母親が、自分を捨てる息子が帰り道に迷わないよう、道の要所要所で枝を折って目印をつけてくれていたのでした。
母親の深い愛に目覚めた息子は頂上まで戻り、母親を連れて帰ってひっそりと親子二人で暮らしました。その時の母親が作った歌が残っています。
「道すがら枝折々々と折る柴はわが身見棄てて帰る子のため」
昔話や民話には数々の親孝行に関する逸話が残されています。江戸時代、八代将軍・徳川吉宗の次のような逸話があります。
吉宗は、長野県のとある地域に鷹狩りに出掛けました。吉宗を一度でも見たいと、村中の人が道の脇で吉宗を歓迎しました。その中に、老婆を背負った青年が立っておりました。話を聞くと、老婆は自分の母親で、足腰が弱くなって歩けなくなり、冥土の土産に吉宗を拝みたいので、息子に背負って連れてきてもらっていたのです。それを聞いた吉宗はいたく感激をして、その場で息子に褒美を取らせました。翌年、同じ村へ鷹狩りに出掛けると、老人を背負って立っている若者が沢山いたのです。皆、吉宗から褒美をもらいたいがために、形だけの親孝行をしていたのでした。しかし吉宗は「見返りを求めていても善いことをしているのだからいいではないか。皆に褒美を取らせよう」と、一人ひとりに褒美を渡しました。数年後、その村の若者は、見返りを求めずに親孝行ができる日本一の孝行村になったのです。
自分の命の源は親であり先祖です。感謝の気持ちが深まるとき、八方塞の危機の中でも上下の抜け道から光が射すことが往々にしてあります。常に「おかげさまで」という言葉を口ずさみながら、毎日を明るく過ごしていきたいものです。