勇気ある挨拶が豊かな人間関係を築く

保険会社に勤務するTさんは、二十八歳という若さでありながら、社内ではトップクラスの成績を上げている営業マンです。
 入社した頃は、積極的なタイプではなかったのですが、ある日の通勤列車内での出来事がきっかけとなって、自分を変える努力を始めたのだといいます。
 それは土曜日のことでした。平日よりも車内は空いていて、通勤客に混じって何人かの小学生がいました。
 列車は、出発してから最初は順調に進行していましたが、突然「ガタン」と大きく横に揺れたのです。その時、一人の小学生の女の子が、隣にいたビジネスマンの足を踏んでしまいました。次の瞬間「あっ、ごめんなさい」と、大きな声と共に頭を下げたのです。足を踏まれた男性も、素直で誠実な姿に、笑顔になって、「大丈夫ですよ」と応じたのでした。
 その光景を目にしたTさんは、〈もし、あの子が何も言わず黙ったままだったら、どうなっただろう…。車内は険悪なムードが生じたかもしれない。それが、ひと言を発したことで、互いに気まずい思いをするどころか、親しさと和やかさが醸し出されたんだ〉と感じ、日々の自己の態度を振り返りました。
 その出来事の半年前から、Tさんは通勤途中のバス停で、初老の男性と毎朝すれ違っていました。挨拶をすることはなかったのですが、毎日顔を合わせる中で、知らぬ振りをしているのが心苦しく感じるようになっていたのです。
 自分よりも年下の子供の姿に刺激を受け、ある朝、Tさんは思い切ってその男性へ会釈をしました。すると、その男性も笑顔でお辞儀を返してくれたのです。
 その時、爽やかな気分を感じたことが弾みになって、数日後には「おはようございます」と声をかけるようになります。さらには「最近、お仕事の調子はいかがですか?」などちょっとした会話をするようにまでなっていきました。
 やがて、Tさんと男性は出身地や通っていた学校も同じであることが分かり、二人はますます仲良くなりました。その後、ゴルフを一緒に楽しんだり、お互いの自宅へも遊びに行くようになりました。
また、男性からお客様をたびたび紹介してもらえる間柄にまでになっていったのです。営業成績がグングン上昇し始めたのは、ちょうどその頃からでした。
 Tさんは「あの列車内での出来事が、自分が変わるきっかけになりました。気づきを大切にして、言葉をかけて本当に良かったと思います」と振り返ります。
 言葉はコミュニケーションをより良くするために必要なものですが、私たちはそれをいつでも適切に使いこなせているでしょうか。豊かな人間関係を築くために、どのような相手へも思いやりを込めた言葉を、素直に使えるようになりたいものです。

変革の中にこそ本質が蘇る

今年は伊勢神宮のご遷宮の年です。大祭のクライマックスは、ご神体が本殿から新殿へ移される遷御(せんぎょ)で、来月十月二日と五日に行なわれます。
 世界でも例を見ない、この二十年に一度の祭典は、日本の歴史のサイクルと深く関係しているといわれています。
また、遷宮のサイクルである二十年を四倍した八十年ごとに歴史を区切ってみると、さらに大きな変革の節目であることに気づかされます。八十年ごとに価値観の大きな変革が起こるとともに、かつ日本の古い精神的伝統が蘇っているのです。
 たとえば、今から八十年前といえば、世界大恐慌が起こり、日本にとっては第二次世界大戦へと歩みを進めていかざるを得ない時代でした。第五十八回ご遷宮(一九二九年)からの二十年は、まさに戦前と戦後の価値観の大きな転換期でした。
昭和天皇が終戦後の詔書で国民に呼びかけた第一の内容が、明治天皇が掲げた五箇条のご誓文でした。そこに示されているのは「和」の精神です。聖徳太子以来の精神的伝統がその後の日本的経営の基盤となり、戦後の復興を支えました。
 さらに遡って一九二九年の八十年前にも、大きな転換期となる出来事がありました。第五十四回ご遷宮(一八四九年)の四年後に、ペリーが来航します。そして、ご遷宮からおよそ二十年後の明治維新。このとき明治天皇は、王政復古の大号令で「神武創業の始めに原(もと)づき……」と詔を発し、国の本(もと)にかえる宣言をしています。
 第五十四回の八十年前(一七六九年)は鎖国の時代でしたが、洋書が解禁となり、蘭学が大流行しました。その時代の転換期に起きたのが、本居宣長に代表される日本固有の文化を追求する国学の勃興です。
 このように伊勢のご遷宮に沿って八十年ごとに歴史を振り返ると、大きな変革の最中に、本来の精神的伝統もまた蘇り、その時代に即したものとして、新たに再生されてきたことがわかります。
 倫理運動の創始者・丸山敏雄は、著書『純粋倫理原論』でこう述べています。
その変わるべきは、あくまで活発に変わり、変わるべからざるは、民族の発生以来、不変不動、而して難にあえばいよいよ改まり、変にあえばますます進む。亡びるがごとくにして、また自然に回復し、何時の間にか民族の巨火をかかげる。
 この「易不易の原理」を経営に当てはめると、創業の精神や心は変えず、本質は守ること、技術や手法、戦略は、時代や状況に応じて柔軟に変えていくこととなるでしょう。
 倫理の実践は、まず自らが変わることです。変わっていく中で、初心を思い起こしたり、変えてはならない仕事の本質も見えてきます。易不易を見定めるためにも、新たな実践にチャレンジしてみましょう。

「死」と向き合いいかに生きるかを学ぶ

いずれ誰にでも訪れる「死」をどのように受け止めればよいのか、肉親の死に直面した時、悲嘆を癒やす過程において、純粋倫理は有効に作用するのか――という問いに答えた本があります。
『悲嘆からの贈りもの~最愛の肉親の死を乗り越えて』(倫理研究所編)です。倫理研究所にはかつて、倫理版グリーフワーク(悲嘆の癒し作業)の確立へ向けた研究グループがありました。本書は、その研究成果をまとめたものです。
 研究は、純粋倫理の視点において「死」「寿命」をどう捉えるか、という問いから始まりました。先行研究の文献調査を中心に、全国から寄せられた実践事例の検証や相当数の聴き取り調査を行ないました。
 調査を通じて、「寿命とは、生命活動全般を指し、この世に担った使命を果たすために限られた時間である」と位置づけると共に、「人のいのちの価値は、長短では測れない。生涯の長さよりも、どう生きたかという生の密度が重要な意味を持つ」という一定の見解を導くに至りました。
 聴き取り調査は主に、肉親の死を迎えたご遺族を対象に行ないました。
話を伺う中で、純粋倫理を学ぶ会友の中に、「死は敗北であり、罪や罰の代償」であるかのように、悲観的に捉えている方がいることを知りました。〈あなたが悪いからこうなった〉と心ない言葉を周囲から浴びせられ、深く傷つき、自責の念に駆られ続ける方にも出会いました。
 また一方では、悲しみを受け止め、乗り越えて、心を安らかに保っている方もいらっしゃいました。
様々な研究調査を経て、悲しみを癒やす倫理的なアプローチとして抽出したのは次の三点です。
 一つ目は、「故人への語りかけ」です。亡き方を身近な存在として感じ、挨拶や依頼ごと、祈りを通して声をかけるなど、積極的な関わり合いを重ねることです。
 二つ目は、「故人の遺志を引き継ぐ喜びの働き」です。故人の思いの実現に向けた取り組みを喜びいっぱいに行なうこと。また、現在、自分の仕事や地域活動などで引き受けていた役割を喜んで努めることです。
 三つ目は、「亡き御霊に対する積極的な感謝」です。故人が家の守り神となって見守ってくれていることを信じ、感謝を捧げつつ、亡き肉親の御霊の存在を思い起こす取り組みです。
 これらの実践を総称して「祖霊迎拝の倫理」と捉えています。その、もととなる思想は、「死は生なり」という純粋倫理の独自の思想です。
死は誰にでも訪れること。今ある生を、与えられた命をいっぱいに輝かせるためにも、時に死を見つめるということから、「どう生きるか」を問い直していきたいものです。

今日一日の生き様が明るい未来を招き寄せる

「拡充」方針三カ年の二期目。全国の各県・単会で雄々しくスタートが切られました。
 良い結果を招くには、「活動計画書」を常に意識した、着実・堅実な活動が不可欠です。
 私たちの人生も、企業という組織の盛衰も、過去から連綿と積み重ねられて現在に至るもので、昨日とは縁もゆかりもない今日が来ることはあり得ないでしょう。
 これから訪れる未来も同様です。今日一日の生き方が、明日という未来を自ら招き寄せていると言えるでしょう。
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 水道工事を主力に建設・土木工事、特に下水道工事の分野では、地域のリーディングカンパニーとなっている会社を営むA氏は、祖父・父と続く三代目の社長です。
 創業は昭和二十六年。創業者である氏の祖父は、馬車引きから身を起こし、重量物の運搬、機械据付工事を人力で行なう、猛者集団を束ねる豪胆な社長として有名でした。
 A氏が中学一年生の時、全従業員と家族を集めての慰安旅行がありました。お酒が入ると共に、和気あいあいと宴会が進み、祖父が皆に促されて宴会場の舞台で十八番の「無法松の一生」を披露しました。
いつにも増して気合が入った様子に見入っていると、演舞が終わると同時に、祖父は舞台上で大の字になったのです。この演出に「今日の会長は乗ってるなあ」と参加者も盛り上がりましたが、そのまま全く微動だにしない様子に、徐々にただ事ではないと騒然としました。祖父は、そのまま舞台の上で息を引き取ったのでした。
 A氏はこの出来事を振り返る度に、倫理運動の創始者・丸山敏雄の次の一節を思い出すといいます。
  小さい事に末を乱す人は、大切な事に終りを全うしない。その極は悲惨な死様をすることにさえなるのである。
  昔の人は死を重んじ、りっぱな死に方をしたいと念じた。正しく生きた人でないと、美しい死に方はできぬ。見事な死にようをした人は、見事な一生を貫いた人である。『万人幸福の栞』第十三条
この直後、周囲は悲しみに包まれましたが、家族をはじめ会社関係の方々にも見守られた中での最期だったので、二代目の父へ円滑に事業が継承されました。また家庭内も、残された祖母を皆が支えつつ、円満な一家として現在に至っているそうです。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは佐賀県鍋島藩に伝わる武士道の心得書『葉隠』の一節ですが、「いかに日常を生きるか」の集大成として「死」が訪れると捉えています。ここ一番で輝かしい結果を欲するのは人の常ですが、そこに至る「日常」こそが問われるのです。
「希望を高く実践は足下から」を肝に銘じ、倫理実践の醍醐味を満喫しましょう。

人としてどう生きるか『葉隠』の精神に学ぶ

『葉隠(はがくれ)』は、佐賀藩士・山本常朝が語った武士のあり方や心得を、当時浪人だった佐賀藩士の田代陣基が聞き書きした書物です。この書は当時(江戸時代中期)、藩内でも禁書の扱いを受けていました。
また、戦時中は戦意昂揚のために利用され、戦後は危険思想とみなされていた時期もありましたが、現代では、新渡戸稲造が世界に発信した『武士道』とともに、日本人の行動哲学書として価値が高まっています。その中に、現代でも通用する数々の倫理観が記されていますので、いくつかを紹介しましょう。

①「毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果たすべきなり」
現代訳「毎朝毎晩、死を意識しているときは、武士の覚悟が身について、一生過ちがなく武士としての務めを果たすことができる」
 何事も死ぬ気で取り組むときに思わぬ力が発揮され、物事が成功するという意味でしょう。
②「大酒にて後れを取りたる人数多なり。別して残念の事なり。先づ我がたけ分をよく覚え、その上は呑まぬ様にありたきなり。その内にも、時により、酔ひ過す事あり。酒座にては就中気をぬかさず、不圖事出来ても間に合ふ様に了簡あるべき事なり。又酒宴は公界ものなり。心得べき事なり」
 現代訳「酒を飲み過ぎて失敗した者は多い。まったく残念である。まずは自分が飲める限界を知り、それ以上は飲まないことだ。それでも飲み過ぎることがある。酒の席では気を抜かず、緊急なことにもすぐ対処できるよう心掛けることが大切である。さらに酒の席は公の場であることを心得ておくべきである」
 お酒を飲むときの心構えとして、気をつけなければならないことが含まれています。
③「世に教訓をする人は多し、教訓を悦ぶ人はすくなし。まして教訓に従ふ人は稀なり。年三十も越したる者は、教訓する人もなし。教訓の道ふさがりて、我儘なる故、一生非を重ね、愚を増して、すたるなり。道を知れる人には、何卒馴れ近づきて教訓を受くべき事なり」
 現代訳「世の中には教訓を言う人は多いが、教訓を言われて喜ぶ人は少ない。ましてや教訓に従う人はほとんどいない。三十歳を過ぎると教訓を言ってくれる人もいなくなる。そうなると人間は自分勝手になって失敗を重ねて駄目になってしまう。道理をわきまえた人に近づき、親しんで、教訓を受けることが大事である」
 目上や周囲の人からの教訓や苦言に耳を傾け、厳しいことを言ってくれる人を大事にする大切さを教えてくれる一節です。

『葉隠』には「人としてどう生きていくべきか」の人生訓がちりばめられています。先人の教えから、幸せに生きていくための原理原則を発見して取り組んでみたいものです。