全国の単位倫理法人会では、毎年、「倫理経営講演会」を開催しています。次に紹介するのは、二年前の講演会での出来事です。
その日は、埼玉県で農業資材を農業従事者に販売する会社を営む小池博社長が事業体験報告を行ないました。二代目の社長として、父親から学んだこと、現在、実践していることなどを発表し、最後に、新しい事業について触れました。
農家が生産した農産物を販売する店舗「とんとん市場」をスタートさせ、当初は賑わっていたものの、「次第にお客様が少なくなり苦戦している」と胸の内を吐露して、体験報告を終了したのです。
演壇から戻った小池社長に、講演会の講師が、「新しい商売に苦戦しているということですが、どのような実践を行なっていますか」と質問をしました。社長は咄嗟の問いに、すぐには答えられませんでした。
講師は続けて「小池社長、あなたは講演会の会場の入口で一礼して入ってきましたね。それはどうしてですか」と尋ねました。社長は「倫理法人会の行事、特にモーニングセミナーの会場に入る時は、一礼して入るように決まっていますから」と答えました。
すると講師は、「一礼や返事などは、会の行事の中だけでするのではありませんよ。日常、職場や家庭で行なえるように、習慣づけるためにしているのです。職場でも、『とんとん市場』の入口でも一礼して、〈今日一日よろしくお願いします。地域の方々に喜ばれる一日となりますように〉と心を込めて入るのです。帰る時には〈今日一日ありがとうございました〉と一礼するのですよ」と告げたのです。
小池社長は早速、その実践に取り組みました。毎日実行するうちに、「店は敷地があるから成り立つのであり、その敷地に礼を尽くすことが店を生かすことになる」ということが徐々にわかるようになってきました。
実践して半年後、「とんとん市場」の客数が増加し、農家や加工品生産者の出店も多くなりました。「物はこれを生かす人に集まる」という学びを実感した小池社長です。
倫理運動の創始者・丸山敏雄は、自著の中にこう記しています。
ここが工場の門である。これが会社の玄関である、ここが私の今日一日の命のはたらき場所である(中略)。今日一日の私の個性のことごとくを、人類の幸福のため世界文化のため有らんかぎりに燃やし立てるのはその職場のほかにないと思うと、おのずからえりを正す気持ちになる。ボウシをとって、進み勇んで、さっと入って行く。私の職場、今日の職場、いのちの職場、魂の殿堂。
『清き耳』より
倫理法人会で行なっている起居動作は、日常、職場や家庭で応用することも踏まえています。そのことを念頭におき、着実に実行してまいりましょう。
月別アーカイブ: 2014年4月
初心を戒める
年度があらたまると、いつも世阿弥の言葉を思いだす。あの「初心忘るべからず」という有名な教えである。
だがこれはずいぶん誤って伝えられているらしい。うぶで、純情な初めの心を忘れるなとか、まじめな覚悟や情熱などを忘るでないといったような意味とは、まったくちがう。
ほんとうの意味は「初心の芸がいかにつたないものであったか、その未熟さ、醜悪さを想いだして、肝に銘ぜよ。そうしておれば現在の芸は退歩しないものだ」といったような意味である。
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さて、年の始め、また月や週の始めなどに「今度は……」と決心をしたり、目標を定めたりする。それはよいことだ。何も心にきめず、あてもなくブラブラとすごすよりも、はるかにその人の生活を充実させる。その意味で、はじめの心つまり初心をどう扱うかは重大である。しかしそれとはまた別に、はじめの失敗、稚拙さ、みにくさなどを心にとめて、現在のわざを、生活をよりよく磨きあげようとするのは、たしかに世阿弥の説くようにきわめて大切だ。
むかしは自分はこんな失敗もした。うでもさっぱりだった。なんとまずいことばかりやっていたのだろう……いろいろとこうしたことを思い返しながら、現在のいましめとして事にあたる。それは心をひきしめることで、いい気になったり、得意になったりする心を抑えることだ。
「オレはうまいのだ」とか「いいぞ、いいぞ」などと今思っているのはうぬぼれに過ぎない。もう一段上から見たら、やはり初心者に過ぎないのだ。「自分は初心者だ」これでゆこう。
世阿弥は修業の段階に応じて、壮年、老年にもそれぞれの時期にふさわしい初経験があり、それがまたそれぞれの初心の芸にほかならない、としている。
〝人の命には限りがあり、能の修業には限りがない。各時期のそれぞれの芸を身につけても、さらに老後の段階に似合う芸を習おうとすれば、それは老境の初心の芸である。その老境の芸を初心と覚悟しておればそれまで身につけてきた能がすべて総合され凝縮されて現われる〟
これを要するに毎日毎日、初心を忘れずに励めということになる。これは観世流の奥義ということだが、私たちの日常の仕事にこれをあてはめてゆきたいと切に願う。ヤキトリ一本つくっても、下着の一枚を洗濯しても、初心を忘れまい。もっと広くいえばこの初心を忘れるから、地球は平和になれないのではないか。
企業経営もそうだ。はじめの稚拙さ、今日の失敗を工夫しよう。セールスも商品や機械類の製造も同じではないか。はじめにやったつたなさを忘れまい。そうして毎日毎日あらためる努力を続けよう。政治も学問も、いや家庭における調理、洗濯、掃除などもすべて同じことだと思う
日々の行動を支える十の要諦
今週は、日々物事に取り組んでいく上での心得や姿勢について、心身両面から、ポイントをお伝えします。
倫理法人会の『幹部研修テキストⅥ』に、「倫理実践の要諦」という章があります。ここでは実践の要諦、すなわち日々行動する上での心得として、次の十項目を紹介しています。
(一)即行 気づくと同時に行ないに移す。(二)純粋 そのままである。何も考えぬ。付加せぬ。(三)直行 まっすぐに行なう。(四)結果を考えぬ 予想せぬ。(五)緊張 実践は、ゆるんではだめである。(六)一気呵成 一息にやり上げる。(七)おしとおす 一歩も退かず押していく。(八)反復不退 出来上がるまでつづける。(九)不悲不喜 わるかったと悲しみに浸り過ぎない。よくできたからといって喜びすぎて油断しない。(十)慎終 後始末をよくする。これらは、内容的に三つのグループに分けることができます。
(一)と(二)は、物事を始めるに際しての心がけです。たとえば、「今年はすぐにお礼状を出すぞ」と決意したとしましょう。しかし、たとえ気づいても、すぐに行動しなければ(礼状を出さなければ)、気づきはやがて雑念となり、果ててしまいます。グズグズしていたり、面倒がって先送りにしていると、別の用件が生じて、せっかく気づいたこと、決意したことが無駄になってしまいます。
また、相手からのアドバイスや助言などをそのまま聞き、実行する姿勢(=純粋)も大切です。〈それが何の得になる?〉などとゴチャゴチャ思い悩んでいたり、できない理由ばかり考えていては、実行を通して味わえる喜びを体感することはできないでしょう。
(三)から(八)は、その物事を行なっていく際の心得です。行動をし始めたら、断固として継続すること。〈人にどう思われているか?〉などと思い煩うことなく、目の前の物事に集中して取り組む。これが「直行」であり、「結果を考えぬ」です。この時、大切になってくるのが、(五)から(八)までの姿勢です。これらは〈始めたことは必ずやり遂げる〉という強い意志の表われです。
(九)と(十)は、物事を締めくくる際のポイントです。行動には失敗がつきもの。順調に成功することもあれば、うまく行かずに頓挫する場合もあります。成功したからといって楽観的になり過ぎたり、失敗したからといって悲観し過ぎない。「不悲不喜」とは、そういう意味です。そして、どのような時もしっかりとした「後始末」をやり遂げること。物事にはっきりとした終止符を打ち、次に備えるのが慎終です。
これら十項目は、新年に立てた決意や目標を実現させるための支えとなるでしょう。今年は、昨年よりも一歩も二歩も成長する自分になろうではありませんか。
いつでも「今が一年生」
成功は最低の教師だ――。
これは、二十世紀最大のビジネス成功者の一人、ビル・ゲイツの言葉です。その理由を、ゲイツは「賢い人間をたぶらかして、失敗するわけがないと思わせてしまう」と後に述べています。成功に酔いしれて進歩向上を忘れると、衰退を招きます。
ゲイツの言葉は、今年最初の「今週の倫理」で紹介した、世阿弥の「初心忘るべからず」と通じるところがあります。この言葉は、「最初の稚拙さを忘れることが進歩向上を阻む」という戒めと、「未熟だった頃を忘れず努力すること」の大切さを説いたものでした。
そして、忘れてはならない初心として、「是非初心」(ぜひのしょしん)、「時々初心」(じじのしょしん)、「老後初心」(ろうごのしょしん)の三つが続きます。
一つ目は、青少年期の未熟さを忘れずに精進すること。二つ目は、地位や年齢が上がっても、「今が一年生」と常に上を目指して、初心に帰ること。三つ目は、老年においても物事に完成はないとして、常に初心の心で磨きをかけていくことを述べています。
世阿弥の精神を、先のビル・ゲイツの言葉に置き換えると、「失敗こそ最高の教師だ」「なぜなら、未熟な段階を心に留め、常に謙虚に向上しようとさせるから」となるのではないでしょうか。
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長く生き延びる企業は、往々にして、初心や本(もと)を大切にしているところがあります。
山梨県南巨摩郡にある西山温泉慶雲館は、世界最古の旅館として、ギネスにも認定されている温泉宿です。創業は飛鳥時代(西暦七〇五年)。慶雲館の家宝の一つが、天文五年の銘が刻まれている鰐口(わにぐち)です。これは武田信玄の家臣・穴山梅雪(あなやまばいせつ)から寄贈されたものといわれ、四五〇年以上経った今も、大切に保存されています。
当主は、家業継続の秘訣として「温泉を守ることだけに専心したお陰。副業に手を出していたら、とっくに潰れていた」と語っています。初心を大切にする習慣が、変化興亡の中を生き抜く鍵なのかもしれません。
今年は午年です。「午」は陰陽の陽の極地を表し、太陽が最も高く上がった状態を示します。また、頂上まで上り詰めたものが、やがて陰に傾き始めることも意味している、と言われます。
「初心忘るべからず」の謙虚な姿勢で仕事に取り組み、「午」の勢いに乗るか。それとも、下降の波に乗るか。これは、その人の心がけ次第でしょう。
「開店の日のいきごみと、友人のよせられた厚意を忘れるから、少しの困難にも、気をくじかせる。終始一貫ということは、成功の秘訣であるが、これが出来ないのは、皆本を忘れるからである」
(『万人幸福の栞』丸山敏雄)
初心と共に、恩を思い起こすことで、時代の波に翻弄されないエネルギーが沸いてきます。そのエネルギーで、良い一年のスタートを切りたいものです。
高らかな声で
夫婦が暗い顔で向かいあって
いる。二人ともものをいう元気はない。物価の値上がりにつれて、商売もおもわしくなく、家計は苦しく、すべてを語りつくして、なおよい智恵も浮かばないのであった。
妻は帳簿をとじ、ペンも投げだした。夫はやたらにタバコをふかすだけ。柱時計の音が、物淋しく聞こえるだけである。
そのとき、ガラリと裏の玄関の戸がひらいた。「ただいま…」と明るい、男の子の声。近くの学習塾に勉強にいっていた長男が帰ってきたのだ。夫婦の表情に、さっと喜色が走る。
ふすまがガラリとあき、半ズボンに長靴下の愛くるしい顔がとびこんできて、コタツにもぐりこむ。
「お父さん、お母さん、いいことあるよ」。夫婦はさっきまでのふさぎこみはどこへやら、ホッと救われたような笑顔。
「なんなの? ね、なにが、いいことなの」と母親。子どもはにやにやして、「あのね、先生がいってたよ」「塾の先生かい? なんだって。早くいいなよ」と父親。
「とてもよくはたらくってさ」
「だれがよく働くんだね」
「お父さんと、お母さんだよ。先生がこの前お店の前を通ったんだってさ。そしたら、お父さんもお母さんも、とてもよくはたらいてたってさ。それだけだよ。ほめられたから、いいことじゃない」
子どもはひやかすように、親の顔をかわるがわる見上げるのだった。親たちは、愕然としたように顔を見あわせて、心うたれたものを、たがいに探しあてるような眼ざしをかわすのだった。
「ただいま」という明るい言葉にまず救われ、「よく働く」とほめられた言葉から〈そうだ、この苦境をきりぬくためには、けっきょく働きぬく以外に道はないのだ。可愛い、わが子のためにもよし、これから夫婦心をあわせて働くのだ〉と決意をしたのは、この晩からだったのである。そして後に、この夫婦の店はしだいにたち直っていったのである。
神は人間に言葉を与えた。言葉は生命力のあらわれであり、心の表現にほかならない。
人や物を悪くいったり、のろったりしていると、そのようになる。そればかりか、いずれそうした言葉は自分に返ってくる。人をほめたり、物にたいして愛情のある言葉をかけてやっていると、相手がそのようによくなり、それらはけっきょく、自分自身に返ってくるようになるのである。
せっかく仕入れてきた商品にたいして、頭から、「こんなもん、うれるもんか」などとくさしていると、なかなか売れない。ところが、「とにかく仕入れてきた品だ。これはこれでよいのだ。どうかお客さんの役に立っておくれ」と言葉をかけてやっていると、そのうち売れるようになるのである。
こちらの心の動きは、物いわぬ品物や機械などにもつたわる。目にこそ見えないけれども、彼らとて耳をすませて聞いていると思って差しつかえないほどである。