『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
   ―この時代をいかに乗り切るか―

4月3日 「心は無限」

「心は無限、万策尽きた時がチャンスだ」と。
 幸之助の心はいつも雨上がりのように澄み切っていました。
 心は見えないが、瞬間瞬間、その人の一切を方向づけているものです。
 だから、心がどこに向かっているかで、
 その人の一生が決ってしまうのです。
 不可能はそう決める心の中にあるのです。
 人間には無限の可能性があります。
 無限の可能性を信じたことが幸之助の成功を築いたのです。

えらぶるはバカのはじまり

あるプロゴルファーの話です。
アマチュア時代、ゴルフの大会出場を目指し、予選会に参加したのですが、力を発揮できず、予選落ちとなってしまいました。
終了後、本来ならいち早く会場を後にしたいところですが、彼は、大会関係者一人ひとりに深々とお辞儀をして、お礼の挨拶をしてまわったそうです。
その光景を遠目で見ていた関係者が、こう声をかけてきました。
「明日まで試合会場で待ってみませんか。万が一欠場者が出たら、優先的に繰り上げ出場できるようにします。可能性は低いのですが」
その話を聞き、彼は会場で待つことにしました。すると翌朝、「出場予定の選手一人が欠場することになり、繰り上げで出場できます」と、連絡が入ったのです。
この試合は彼――石川遼選手にとって、記念すべきものになりました。大会最終日の終盤に奇跡のショットもあり、プロを相手に、アマチュアとして初優勝を勝ち取ったのです。幼い頃から身についていた周囲への気配りと、謙虚な姿勢が、思いがけないチャンスをたぐり寄せたのでした。
その後、石川選手はプロに進み、現在はアメリカでより高いレベルに挑みながら、日本を代表するプロゴルファーとして活躍を続けています。常に低姿勢で、気配りのある振る舞いには、プロとして成功をした今も、ゴルフ業界で定評があります。
練習、試合を問わず、プレーが終了すれば、コースに深々とお辞儀をし、トイレでは備えつきのタオルですべての洗面台をきれいに拭いてから出てくるそうです。
実力第一のプロスポーツの世界ですが、人や物に対しての謙虚さが運を引き寄せ、周囲への感謝や心配りが、多くの人から協力を得ることにつながるのでしょう。
反対に、勝ち続けるうちに感覚が麻痺して、知らず知らずのうちに傲慢になり、長年支えてくれた協力者や応援者が去ってしまう、というケースもあります。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
ということわざがありますが、地位が上がり、権威を有するほど謙虚であるべきだ、という教訓がそこには込められています。
経営者においても同じでしょう。相手がいくら大きな成功をおさめていても、態度が傲慢であれば協力したくなくなり、反対に、常に謙虚な人には協力の手を差し伸べたくなるのが、人間の素直な心持ちではないでしょうか。
「えらぶるはバカのはじまり」
 自分でえらぶっても、えらくなるものではない。人からバカにされても、自分でバカにならねば、バカになるものでもない。
えらぶれば、教わることはおぼえず、せっかく進んでいても、パッタリ止まってしまう。そして、人にいやがられ、バカにされる。
えらぶるその時から、バカになり始める。
「倫理かるた」より(丸山敏雄全集 第二十四巻・上)
家庭、職場においても、日々謙虚さを忘れず、周囲への心配りを忘れずにいたいものです。

自分の善を誇る悪

朝はやく起きた。すがすがしい気持ちだ。外の掃除をす
る。勉強をしに行ってくる。偉くなったような気分だ。
ところが帰ってくると、陽はもう高くなっているのに、家の者はまだ眠りこけている。
〈なあーんだ。まだ眠っている。馬鹿な…自分はこんな善いことをしてきたのに…〉
こうした気持ちが肚の中に湧く。眠りこけている連中が、いかにも愚劣な者のように思えてくる。自分は善いことをしたのだという快感がひとしきり強くなる。
早く起きて勉強したのは、たしかによいことであった。断じて悪事ではない。しかし問題はその後に生じたのである。
それは寝ている者と比較して、自分を偉く見た点だ。眠っている者を見下し、軽蔑する気持ちが湧いただけ、それだけ自分が偉くなっている。そこが悪いのである。
重いものを持って、困っている老人が目についた。どうしようかとちょっと考えたが、手伝ってやることに決め、駅までその荷物をもってあげた。「ありがとうございます」とていねいに頭を下げられ、すっかり嬉しくなってしまった。
「今日はよいことをしたぞ。年寄りを助けてやったんだ。どうだ、どうだ…」
謙虚さの全くない、このような愚劣な振舞など自分ならぜったいにしないと思っているかもしれない。しかし、助けてやって善いことをしたと、口には出さなくても心の中で得々としていることがあるのではなかろうか。形には表わさなくても心に思っておれば同じことだ。
寄附をしても自分の名前が出ていないと不愉快に思ったりすることがありはしないか。その底に他人に誇る気持ちがあるのではないか。善いことをしても誉められないと、おもしろくないことがありはしないか。その心の奥に自分の善を他人に誇りたい気持ちがあるのではなかろうか。
 *
一般に誇りをもつことは、それ自体は悪いことではない。しかし誇りは自惚れと紙一重である。自分が善いことをして誇り、正しいといっては他を責め、人の意見を包容できず、受けつけないでいると、それだけでせまい固い殻の中にとじこもってしまう。
〈自分は善いことひとつろくにできない。これではだめだ、なんとかして…〉と思っているほうがむしろ尊い。小さな善をコツコツと積み上げていって、天までのぼるようなことを夢みているよりも、何ひとつできないこの自分の額を低く大地にすりつけているほうが輝かしいのだ。
まわりからも感謝され、真の生き甲斐を見出すみちは、〝たとえいくら善を積んだとしても、ほんとうは何ひとつできてはいない。自分はまことに至らない者なのだ。至らないが、何かさせていただかなくては…〟と低きに居ることだ。その低いことをまた誇りに思うこともなく、ただただそう思っている。その心が尊いのである。

今できることをやってみよう

頭でただ思っていることと、
実行することは違います。私たちの日常でも、〈よくわかっている〉〈自分には必要なことだ〉と頭で理解していても、なかなか実践できずに足踏みをしていることは多いのではないでしょうか。
たとえば「経営者モーニングセミナー」での気づきです。『万人幸福の栞』を輪読したり、会長挨拶、会員のスピーチ、講話と続く約一時間の中で、自分にあてはめて〈これは重要だ〉と認識しても、一歩会場から離れると、なかなか行動に移せないものです。
理由の一つとして、早朝から勉強し、知識を得たことで、〈自分はよくわかっている〉〈他者よりも優れている〉という傲慢さが芽生え、実際にやったような錯覚に陥ってしまうのかもしれません。
たとえ知識を得ても、実践実行しなければ、よい結果は現われません。『万人幸福の栞』の前文にはこう記してあります。
  すべて無条件に、このまま実行していただきたい。そこには
必ず新しいよい結果が現れます。
思いもよらぬ幸福な環境が開けてまいります。
「実践する」とは、新しい気づきを実行に移すこと、日々進むこと。理屈などなく、そのまま無条件に行なってこそ、私たちの心に巣くう「傲慢さ」は払拭されて、「謙虚な心」へと昇華されます。
監督者として自動車部品工場に勤めていたK氏は、工場の閉鎖が決定し、他県への転勤を勧められました。氏の長男はまだ高校生です。家族のことを考えて、K氏は早期退職を決めました。 
新しい職場を求めてハローワークへ赴くと、若者で大混雑しています。自分の能力には自信があったK氏でしたが、五十七歳という年齢もあって、面接を受けた会社はいずれも不合格でした。
〈無職の自分にできることは何だろう〉と考えた末、K氏の始めた実践は、妻への挨拶でした。
家族と過ごす時間が増えた分、仕事が決まらない苛立ちをつい妻にぶつけてしまいがちだったK氏。

〈仕事はなくても、挨拶はできる〉と実践を決意したのです。
長年連れ添った妻に、改まって挨拶をするのは照れくささもありました。それでも、「今日一日よろしくお願いします」と頭を下げると、〈本当にそうだな、今日一日妻の世話になるんだな>と、謙虚な気持ちが湧いてきます。会社勤めの頃にはなかった感情でした。
K氏は、挨拶の実践とともに、日々接する人の言葉に耳を傾け、「はい」と受け止める実践にも挑戦しました。やがて、ある会社の面接で「はい、喜んでやります!」と即答した返事が好印象となって、再就職が決まったのです。
〈今の自分にできることは何だろう〉という問いは、日常に多くあります。この時がチャンスです。問いかけから得た「気づき」を逃さず、まずやってみましょう。実行に移してみましょう。
日々の実践を継続することで、謙虚な心が養われ、新しい環境が開けてきます。足元の実践から、幸福への扉は開くのです。

受けた恩の有難さに気づく

ようやく出た便を、両手に捧げて泣いている妻の姿をうつろに知った時、私は起き上がれぬまま、グッと熱いものが胸にこみあげてきて、両眼から涙がしきりに流れ落ちるのを、どうすることも出来ませんでした」
これは、脳軟化症を患い、排便が出来ずに、生命の危機に見舞われたA氏の言葉です。
その時、氏は六十二歳。妻の愛情がどんなに深く、有難く尊いものであるかを思い知らされました。
医者も諦めた病を、氏は見事に克服し、八十二歳まで元気に働きました。「妻は観音様です」という氏の言葉からは、生死の淵に立って知る妻の愛情への感謝と、謙虚さが伺えます。
また、A氏の体験は、排泄という日々の当たり前のことに対する見方を変えてくれます。食事と同じように、排泄も尊い生命の営みです。命を支えてくれる食事に感謝するのと同じように、トイレでたとえ一瞬でも、その有難さに思いを至らせ、感謝する気持ちを持ちたいものです。

謙虚とは、辞書によれば「控え目で、つつましいこと。へりくだって、素直に相手の意見などを受け入れること」(『大辞泉』)とあります。増上慢的な発言や行動は、それだけ他人を不愉快にさせ、人の善意を傷つけ、社会の調和を乱してしまいます。
また、慎ましさに内包される素直さがなければ、経営者としての学びを得られず、事業運営上の必要な情報も的確に捉えることが難しくなるでしょう。
「今週の倫理」の今月最初の号(八六二号)には、寄附の話が登場しました。「寄附をしても自分の名前が出ていないと不愉快に思ったりすることはありはしないか。その底に他人に誇る気持ちがあるのではないか」と述べられています。
本来寄附は、善意で行なわれるもので、自分の善行を世に示すためのものではありません。とはいうものの、つい善を誇りたくなるのが人の常であり、頭では分かっていても、謙虚さを失ってしまうのが人間でしょう。
A氏のような大苦難に見舞われなくても、日常の中で、どうすれば謙虚な心持ちを保っていけるか。その鍵は、してもらったことに気づけるかどうか、にあります。
「内観」と呼ばれる心理療法には、両親やお世話になった人との関係の中で、「自分がしていただいたこと」「して返したこと」「ご迷惑をお掛けしたこと」を年数を区切って細かく調べる(思い出す)段階があります。
初めのうちは、「して返したこと」ばかりが出てくるのですが、次第にほかの二つを思い出していくにつれて、治療の効果が上がってくる、とされています。
自分のしたことを誇りたい気持ちは誰にもありますが、どれだけ多くの「していただいたこと」に支えられ、「ご迷惑をお掛けしたこと」を許されて生きてきたのか、その恩に気づき、有難さをかみ締める時に、謙虚に生きる道が開かれるのではないでしょうか。