『吉田松陰一日一言』

川口雅昭氏編  致知出版
『吉田松陰一日一言』
―魂を鼓舞する感奮語録―

「深憂とすべきは」

深憂とすべきは人心の正しからざるなり。苟も人心だに正しければ、百死以て国を守る、其の間勝敗利鈍ありと云へども、未だ遽かに国家を失ふに至らず。  安政2年8月26日「講孟劄記」

【訳】

深く憂うべきは人々の心が正しくないことである。仮にも、心さえ正しければ、全ての人々が命をなげうち、国を守るであろう。とすれば、その間に、勝ち負け、また、出来不出来があったとしても、決して急速に国家が滅亡することはない。

飽きこそ転機

カレーライスとカツライスだけをいつも昼食に出している洋食屋があった。この店のメニューはこれだけだった。学生のN君は、この二つを交互に食べてきたが、いつも同じでつまらない、とうとう飽きてしまった。
「こうなったら、自分で何か作るしかない」。N君はそう結論づけて、その年の二月、親しくしているその店の調理場に入らせてもらい、自己流の料理を作ってみた。
 皿盛りのご飯を丼に移し、その上にカツライス用のカツをのせ、メリケン粉をといてソースを煮つめた汁をかけた。そして青エンドウを上にあしらってみた。食べてみると、なかなかいける。
「こりゃ、なんというのか、うまいぞ」とまわりからいわれ、N君は、「うーん、そうだな、カツ丼だ」と即座に答えたのだが、この「カツ丼」は大当たりで、たちまち銀座や日本橋の食堂でも作る店が続出し、ほどなく大阪にも広がったそうである。カレーライスとともに、もっともポピュラーな国民食となっているカツ丼は、一九二一年にこうして生まれ出たのであった(『早稲田大学史』による)。
 ここで注目したいのは、従来のカツライスに飽き飽きしたとき、新しいカツ料理が作られたということだ。同じものを見たり、聞いたり、食べたり、いろいろやっていると、飽きがくる。だがそこにこそ、その飽きを活用するか、あるいはそのままで過ごしてしまうのか分かれ道があるのである。
 同じようなカツライスを毎日食べていても飽きない人があるだろう。あるいは飽きていても、我慢して食べている人もあるだろう。Nさんの場合は、飽きたのである。何か新工夫はできないものか。そうした単純な考えの中に、ヒントがひらめいたのである。
 発明とか発見とか、そしてまた広い意味においての成功などというものは、こうした飽きや苦難の中から生まれてくることが多い。ぼんやりと飽きの中に、ただ飽いてアクビをしているだけでは改良改善はできない。向上もない。
 職業に飽きがきたらどうするか。「飽きずにやるのが商いだ」という人もあるが、転職もひとつの道であろう。しかしたんに飽きっぽい性格ではどの職業を選んでも、飽きがきて、次から次へととどまることがない。自分がやらねばならない今の仕事、それに飽きがきた。どうしたらよいか。
そのときこそ進歩か、退歩か、それとも現状維持のままか、それらを決する重大な分かれ道に立っているのである。
もし飽きがきたら、その中に前進の道ありと心得て、その仕事をよく見、よく感じ直すことだ。「アーアー、また掃除か」と思うようだったら、そこにこそ進歩改善の妙法ありと気持ちをかえ、気をつけてのぞむ。すぐにその妙法は得られなくても、そう気分をかえただけでも楽しくなる。
全く同じことを続けてやる一貫不怠の道のほかに、こうした飽きを活用する道も厳然として存在するのである。

『吉田松陰一日一言』

川口雅昭氏編  致知出版

『吉田松陰一日一言』

―魂を鼓舞する感奮語録―

「武士たる所は」

 

武士たる所は国の為めに命を惜しまぬことなり。弓馬刀槍銃礮の技芸に非ず。国の為めに命さへ惜しまねば、技芸なしと云へども武士なり。 安政3年4月3日「講孟劄記」

【訳】

武士が武士である所以は、国家のために命を惜しまないことである。弓、乗馬、刀、槍、小銃や大砲などの技術があるからではない。国家のために命を惜しまないようなら、技術がないとしても立派な武士である。

『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野親之 著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

5月5日 「道は無限にある」

「木野君、人間には自分でも気づかない道が無限にあるんだよ。
それを制限しているのも自分自身なんだ」と、繰り返し教えられた
ものです。

松下経営理念に目覚め、経営理念に祈って祈って祈り抜いた時、
その道が姿を現してくるのだと信じています。
道は無限にあるということを発見した幸之助の考えこそ、自身を
失った今の指導者に伝えたいものです。

『吉田松陰一日一言』

川口雅昭氏編  致知出版

『吉田松陰一日一言』

―魂を鼓舞する感奮語録―

「心一杯の事を行ひ尽す①」

 

其の心を尽すとは、心一杯の事を行ひ尽すことなり。力を尽すと云へば、十五貫目持つ力ある者は十五貫目を持ち、二十貫目持つ力ある者は二十貫目を持つことなり。是を以て考ふべし。今人未だ曾て心を尽さず。故に其の一杯の所を知ること能はず。

【訳】

その心を尽くすとは、心一杯、自分の限界まで行い尽くすことである。力を尽くすといえば、十五貫目のものを持つ力があるものは十五貫目のものを持ち、二十貫目のものを持つ力のあるものは二十貫目のものを持つことである。このような例で考えるべきである。今の人はこれまで一度だって心を尽くさない。だから、自分の心がどこまで力があるのかを知ることができない。