木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
5月24日 「指導力の中心は」
「指導力の中心は指導しようとする意思の力である」
これは幸之助の強い一念です。
心こそ一切の源泉です。意思の力は、無限大です。
その偉大な心を、誰もが持っていると、幸之助は信じて
いました。
幸之助は熱意でもってさらに熱意を作りだし、決意を
持ってさらに決意を固めたのです。
木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
5月24日 「指導力の中心は」
「指導力の中心は指導しようとする意思の力である」
これは幸之助の強い一念です。
心こそ一切の源泉です。意思の力は、無限大です。
その偉大な心を、誰もが持っていると、幸之助は信じて
いました。
幸之助は熱意でもってさらに熱意を作りだし、決意を
持ってさらに決意を固めたのです。
川口雅昭氏編 致知出版
『吉田松陰一日一言』
―魂を鼓舞する感奮語録―
「游優の暇なし」
花、闌ならば則ち落ち、日、中すれば則ち昃く。人、壮なれば則ち老ゆ。百年の間、黽勉の急ありて游優の暇なし。 弘化3年2月「観梅の記」
【訳】
花は満開となれば、やがて落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆっくりとくつろぐ暇などはない。
川口雅昭氏編 致知出版
『吉田松陰一日一言』
―魂を鼓舞する感奮語録―
「古人今人異るなし」
余常に謂ふ、古人今人異るなし。(中略)俗人の癖として、古人と云へば神か鬼か天人かにて、今人とは天壌の隔絶をなせる如き者と思ふ。是れ自暴自棄の極みにて、(中略)与に※堯舜の道に入るべからずとは此の人なり。 安政3年6月17日「講孟劄記」
【訳】
私は常に「昔の心ある立派な人も、今の私どもも何ら変わりはない」といっている。(中略)つまらない人間の癖として、昔の心ある立派な人といえば、神様か、鬼か、天の人かと見なし、今の私どもとは、天と地ほども大きな違いがあると思っている。これは、自分を駄目なものと思い込み、将来を考えない、投げやりな態度の極みである。(中略)共に手を携えて堯帝や舜帝の道に入ることができない人とはこういう人である。
※堯帝と舜帝。共に、中国古代伝説上の聖王。堯帝は暦を作り、治水に舜帝を起用し、位を譲った。また、舜帝は、よく親に仕え、同じく治水に功績のあった禹に位を譲ったといわれる。
木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
5月23日 『目標と希望を与える必要がある』
[経営者は、杜具に対して、常に目標と希望
を与える必要かある]と、幸之助から叱ら
れました。
指導者は、まず自分自身が目標を持ち、目
標達成への熱烈な意志を持って、それを部
下に訴えることか必要です。
命令だけでは、人も目標も動かないのです。
そこに幸之助の人間哲学がありました。
川口雅昭氏編 致知出版
『吉田松陰一日一言』
―魂を鼓舞する感奮語録―
「欲の陥り易くして」
凡そ欲の陥り易くして悔い難きものは、多くの忽せにする所にあり。 安政3年6月10日「講孟劄記」
【訳】
だいたい、欲望というものが陥りやすく、後から振り返って、悔やんでも悔やみきれないのは、(心を)いい加減にしているところがあるからである。