ある人が脱サラをして小売店
を開業しました。一年が経過しましたが、売上げが予想に反して伸び悩んでいます。〈こんなことなら脱サラするべきじゃなかった〉と悔やまれてなりません。
〈ここはもともと立地が良くない〉〈バイトの店員の態度が悪いから売れないのだ〉〈結局、この商売は儲からない。熱心に勧めたあいつが悪い〉と、つい何かの「せい」にしてしまう心がよぎります。その気持ちは、日を追うごとに増すばかりです。嫌々商売を続けるうちに、経営状況はさらに悪化していくのでした。
さて、このように「せい」にしていて、はたして次の一手が生まれるでしょうか。
人は、多かれ少なかれ、他力本願の気持ちはあるものです。状況さえ整えば自社も良くなる、と思いがちです。しかしそれでは、自社の好不調も、周囲次第となってしまいます。
日々刻々と社会情況が変化する中、「タナからぼた餅」ではなく、喜びの仕事を自ら創造していくにはどうすればよいのでしょう。
苦境から脱出する鍵は、「徹底して人を喜ばせることにある」と説いたのは、倫理研究所・丸山竹秋会長(二代目理事長)でした。
「今日はお客さんをどのくらい喜ばせたであろうか。数は少なくなったが、また新たに入る見込みもないが、とにかく現在、いっしょに働いてくれるわが従業員たちを、今日はどのくらい喜ばせたであろうか。こうしたことがらを、徹底的に追及しながら、毎日毎日を働きぬいてゆくことです。そうしておりますと、かならず時がきて、こんどは以前にも増して、はるかに、りっぱな仕事ができるようになるのです」
(『中小企業の突破口』より)
〈あれが悪い〉〈これでは駄目だ〉と人のせいにしたり、ただ悲観しているより、「やると決めた以上はやるのだ」と心を決め、人を喜ばせることをひたすら一所懸命にやる。人の喜びは、必ずわが喜びとなり、今の仕事への喜びを育ててくれるものです。
住宅建築の会社を経営するT氏は、休日になると、必ずといっていいほど地域の清掃に打ち込んでいます。高速道路の真下など、人が来ないような所にも足を運び、ヘルメットと作業着を着て、四時間ほどゴミを拾います。
「人様の見てないところで、いかに人様のために働けるかと思って清掃しています」と語るT氏。清掃で日焼けした顔で、ニッコリと笑います。
T氏の奉仕活動は、傍から見れば、〈なぜそこまで?〉とも思える活動です。しかし、地域のために一身に打ち込んでいるうちに、人の喜びがわが喜びとなって、仕事へのエネルギーを生み出しています。喜びの効果が波及するように、直接名指しで、新規の建築依頼が届くことも多いそうです。
人生の岐路で迷う時、自らを鼓舞して、人を喜ばせることを実践の目標に掲げていきましょう。その喜びの働きこそ、苦境の中で事態を好転させる、大きな原動力となるはずです。
月別アーカイブ: 2014年6月
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
6月18日 「かつてない困難は、かつてない発展の基礎となる」
「かつてない困難からは、かつてない確信が生まれ、かつてない
確信からは、かつてない飛躍が生まれる」
私が再建する会社の社長として着任する時、幸之助からいただい
た励ましの言葉です。
苦しい時の支えとして素直に拳拳服膺することで、この言葉通りに
なりました。
『吉田松陰一日一言』
川口雅昭氏編 致知出版
『吉田松陰一日一言』
―魂を鼓舞する感奮語録―
6月18日 「軽蔑する者は」
貧賤を以て是れを軽蔑する者は、必ず富貴を以て是れに諂屈す。 安政3年6月10日「講孟劄記」
【訳】
貧乏や身分の低いことをもって、その人を軽蔑するようなものは、必ず、お金持ちや地位の高いことをもって、その人に媚びへつらう。
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
6月17日 「体験から学ぶ」
幸之助は経営の神様といわれました。
幸之助の経営のコツは、ほとんどが体験を通して身に
つけたものです。
幸之助の教えに「経営のコツここなりと、気づいた価値
は百万両」という言葉があります。
その人独自の経営を完成させるには、独自の体験が
大切なのです。
経営には指導者の一念と実地の体験が不可欠です。
体験は挑戦することから自然に生まれてくるのです。
『吉田松陰一日一言』
川口雅昭氏編 致知出版
『吉田松陰一日一言』
―魂を鼓舞する感奮語録―
6月17日 「凡そ生を天地間に稟くる者」
凡そ生を天地間に稟くる者、貴となく賤となく、男となく女となく、一人の逸居すべきなく、一人の教なかるべきなし。然る後初めて古道に合ふと云ふべし。 安政3年8月以降「武教全書講録」
【訳】
この世の中に人として生まれたものは、身分、性別にかかわらず、一人として怠けて気ままにしているべきものはなく、また、一人として教えないでいいというものはない。こうして後、初めて昔からの正しい教えに及ぶというべきである。