『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

11月23日 「正面から挑む」

すべての事柄を正面切って受けて立つ。
そんな気概を幸之助にいつも感じていました。
どんな逆境にも敢然と立ち向かう生き方が、幸之助自身の命を
強くしていったのです。
正面から挑むという、指導者の一念が事業を成功へと導いて
いったのです。
心が燃えずにうろたえていては、偉大な事の成就は絶対に
不可能なのです。

『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

11月22日 「社員に経営意識を持たせよ」

幸之助は、常に社員の経営意識を持たせたい、と考えていました。
衆知の経営をしていくには、社員一人一人が社長のような気持ちで
働くことが一番大事です。

「木野君、社員が全員社長のようになったら、会社は簡単に発展する。
君も僕を使えるようになったら、一人前や」
と、鼓舞されました。
社員は会社の宝なのです。

『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

11月21日 「素直の初段」

「君な、素直な初段になったで」
幸之助は、真々庵に行く車中で喜んでいました。
PHP三〇周年の記念日です。
素直な心になれば、すべての真実が見えてくるのでしょう。
幸之助の判断はいつも間違っていませんでした。
何事にも素直に取り組んでいけば、そこから新たなものが
生み出されてくるのです。
「木野君、早く君も素直の初段になれ」
いまでも天国から言われているような気持ちです。

和の精神文化を経営に活かす

日本文化の特質として挙げられるのは、「和」の精神です。
古くは、聖徳太子の十七条憲法の第一「和を持って貴しと為す…」にもそれが表われています。
 その「和」の精神を経営にも活かしてきたところに、日本的経営の特徴があります。
経営の神様といわれた松下幸之助氏は、「和親一致」を経営理念に掲げていました。
氏は、人の和が熟練された組織の姿を「上意下達」「下意上達」に見ていました。
「社長の考えていることが少しも下に通じない会社は、概して上手くいっていないようです。
また逆に、下意が全然上達していない会社は、さらによくないと思います」
と氏は述べています(*1)。
また、江戸時代の三井家(現在の三井グループ)の家法「宋竺遺書(そうちくいしょ)」には、「上に立つものが邪(よこしま)の心の持主であれば、下もその通りになるものだ」
と説かれています(*2)。
建設設計を営んでいるO氏は、朝礼の進め方に悩んでいたところ、
『職場の教養』を紹介されました。さっそく倫理法人会に入会して、活力朝礼を導入しました。
以前よりも社内の風通しはよくなりましたが、相変わらず社員の働き振りには不満を
抱いていました。社員を教育しようと、あの手この手で取り組むのですが、
反発されることも多くあったのです。
そんな折、O氏は倫理法人会の役職を受けることになりました。何をすればいいのか
わからなかったので、講師にアドバイスを求めると、「会長の良いところを百個見つけること。
心から合わせること」と教えられました。
早速、その通りにしようと努力したのですが、自分の考えや方針と異なる会長に、
なかなか合わせられません。見下されたような言葉に、反発を覚えることも多く、
険悪なムードが続いたのでした。
ある時、これは現在の会社の状況と似ていることに気がつきました。
〈社員もこんな気持ちで私に反発していたのか〉と振り返ることができ、O氏は、
社長としての自分の姿に気づいたのです。
以来、O氏は会長に合わせることを徹底して行ないました。すると、これまでは指示を出さないと動かなかった社員が、自分から判断を仰ぎにきたり、会社にいなくても、積極的に報
告・連絡・相談をするように変わってきたのです。 
職場も以前より活気が出てきました。社員の姿は、中心者である自分の心の反映であったのです。
経営者の心が明朗闊達である時、事業はまっすぐに進みます。異なる意見を聞き入れ、
衆知を集め、心を合わせる時、新たなものが生まれてきます。日本という国も、あらゆる文化を
受け入れ、独自のものを生み出しながら、かつ日本らしさを失わずにきました。
塩が水に溶ければ、全体が塩味になるように、合わせることで自己が全体に及びます。
中心者自らが変わって、周囲を変化させていく実践こそ、
「和」の精神を基調とした倫理経営といえるでしょう。

名品にふれる時

下手の横好きで、ときどき将棋をさすが、この正月に分不相応ながら新しい将棋駒を
手に入れることができた。それは駒づくりの名人といわれる木村文俊(ふみとし)さんが、
伊豆七島の御蔵島(みくらじま)のツゲ材を数年間乾燥させて刻んだ金竜書体の盛上げ駒である。
輝くばかりの光沢、一様に流れている木目の文(あや)……。何かと疲れた時、落ち着かない時、
思索の行き詰った時など、手にとってじっと眺めていると、次第に心がなごんでくるのだから、
まことに妙である。
つまみあげて盤に打ち下ろした時、やわらかい音が響くにもかかわらず、いくらたたきつけても、絶対にこわれないその硬さ……まさに美術品である。
いったい美術品を鑑賞するだけの眼は私にはないが、いくら素人でも、
よい作品に接すると心にふれるものを覚えるのは当然だ。「吹けば飛ぶような将棋の駒」でも、
一心不乱に彫りこんだ真心は、ビンビンと伝わってくる。機械で大量生産した駒と比べて、
そこには大変な違いがある。
 絵画、彫刻、陶器、磁器、その他、みんな同じことだと思う。込められた一心は、
自ずからその作品ににじみ、また輝く。それを眺めたり、触れたり、
また聞いたりしているうちに、それらの作者の心のままに、こちらの心が律動(リズム)を
奏でてくる。一口にいえば「よい気持ちになってくる」、それでよいのだと思うのである。
 人によって鑑賞の度合いの浅さ深さとか、批評の基準のちがいというものは、いろいろとある。しかし世に永く名作とか名品とか評価されてきたものは、一般にそれらに接することによって、
私たちの心が、いかほどか高まり、また美しくなるものである。
はっきりと言って、私たちの心の中には、醜悪なもの歪曲されたもの、
さらには邪悪とまで考えられるようなものが、かなりひそんでいる。
「私は悪いことは少しもしていません」といっても、その人の心の中を遠慮容赦なく暴いて
ゆくと、人を不当に責めたり、恨んだり、そねんだり、あるいは自分自身を痛めつけたり、
粗末にしたり……というような事実が出てくる。
少なくとも私自身は、多分にそういうものを感じて、何とか、より一歩向上してゆこうと
つとめている。そうした面からいっても、名作とか名品とか、立派なものに接する時、
そのもののもつ、よさや立派さがこちらの心を、よりよく、より立派にする機会を与えて
くれているように感じられるのだ。
 といっても、もちろん高価な食器を使え、絹のフトンに寝るべし、衣服は最高級品を着用せよ、などと主張しているのではない。
 私たちにできるのは、工夫して暇をつくり博物館や美術館また展覧会場などにおもむいて、
そうしたものの鑑賞をすることである。虚栄のためでも、逃避のゆえでもなく、自己自身の向上のためである。
「向上」といえば、固苦しく響くかもしれないが、人生はすべて向上を目指すのでなければ無意味であると、私は確信している。低下の道はたどりたくない。「死してなお向上」である。