『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

9月10日 「熱心の上にも熱心に」

私が社長就任のおり、幸之助は「この子は熱心な子や」
と記者の質問に答えてくださいました。
私は熱意というものが一番大事だと考えていました。

自分の腹の底から生まれてくるものがなければ本物ではない。
毎日の熱き触れ合いの中に、人生を豊かにする智慧が
でてくるものです。
熱意は、他人の幸せを願う心から生まれてくるのです。

『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

9月9日 「天地宇宙の声を聞け」

指導者は、天地宇宙の聞こえざる声を聞き、見えざるもの
を見る力が必要です。

素直な心になれば誰もが聞きとり、見ることが出来るのです。
指導者の心は、鏡のように澄み切っていなければ、見えるも
のも間違って見えてしまいます。

すべての要因は、指導者の心の中にあるのです。
幸之助はいつも、そのことを教えてくれました。

父母もその父母もわが身なり

自分のことを心から思ってくれる親の存在ほど、ありがたいものはありません。

〈子供の頃、どれだけ自分を可愛がってくれただろう〉〈病気の時、寝ずに看病してくれた〉〈苦労して働いて、学校を出してくれた〉

たとえ親が亡くなっていたとしても、こうしたことを思うたびに、心が温かくなるものです。

では、親に直接的な愛情をかけてもらえなかった人は、どうでしょう。世の中には、親の愛情を感じられない人もたくさんいます。叱られたり、粗末に扱われたことしか思い出せない人もいます。そうした人は、親を恨み、憎んで当たり前なのでしょうか。

いや、決してそうではありません。親に対する感謝は、生命付与の一事に尽きるのです。

わが生命は、父母によってこの世に生み出されました。親がいなかったら今の自分はいません。このことへの感謝は無条件です。

生命付与という点では、父母もまた、祖父母に生命を享けています。祖先がいなければ、両親も、今の自分も、子供も、孫たちの存在もありません。

「父母(ちちはは)も その父母も 我身(わがみ)なり  われを愛せよ 我を敬(けい)せよ」

これは二宮尊徳翁の道歌です。 父母、その父母と連綿と命が続いてきたからこそ自分の命がある。体の中に、親祖先の尊い命があることを思えば、自分を愛し、自分を敬うような生き方をしなければならないということです。同時に、わが生命のもとである親祖先を大事にすることが、自分自身を大切にすることでもあるのです。

亡き人の墓参は、死者を大切にするという心のあらわれです。祖先の墓を大事にし、供養していくことは、祖先を喜ばせることになります。ひいては自分の生命を大切にすることにほかなりません。

若い頃、さんざん親不孝をしてきたというAさんは、墓参を月一回、コツコツと三十年間続けてきました。お墓を大切にすることは、自分自身を大切にすることであると気づいたからです。

Aさんはまず、お墓周辺をきれいに清掃してから、親祖先に近況を報告し、今あることの幸せに感謝して、お礼を述べています。時には自身の若い頃の過ちや親を悲しませてきたことを反省し、墓前で詫びることもあります。

忙しいAさんにとって、この墓参の時間は、親祖先と向き合い、自分と向き合う貴重な時間であるといいます。「だから墓参は自分のためでもあるのです」と語るAさん。月に一度、その時々の決意を親祖先の御霊に誓い、気持ちを引き締めることが、なくてはならない習慣となっているのです。

自分の生命の元である親に純情な心で対座する時、その生命はいよいよ純化して、思いがけない力が湧いてきます。

Aさんの場合は月に一度ですが、人それぞれに事情は違うでしょう。毎日、週一、月一、年一と自分なりに決めて定期的にお墓に参ることで、自己の生命力を更に輝かせたいものです。

祖先は自分の中にいる

親を亡くした人に、「あなたの親や祖先は、今どこにいるのでしょうか?」と尋ねると、「天国にいます」とか、「あの世にいます」とか答えるであろう。中には、「墓の中にいます」とか、「どこにもいませんよ」などと憮然とする人もいる。

はたしてそうした答えの通りであろうか。では天国とは? あの世とは? などと問いつめてゆくと、はたして満足な答えが得られるのであろうか? 大変難しいようだ。

では親祖先ははたしてどこにいるのか? その答えは実ははっきりしている。

「親祖先は自分自身の中にいる」

たとえ親祖先の肉体は今はなくなっているとしても、第一、生物学的にみると親祖先の血はまさしく自分自身の中に流れている。私たちの肉体を構成している細胞それ自体がすでに親祖先のものである。父そのもの母そのものと全く同じではないにしても、この私の身体の中にすでに父母があり、そして祖先があるのである。これは科学的にも否定し去ることはできない事実である。

 

第二は、その自覚である。つまり親祖先は自分の自覚によって自分の中〈肉体〉にあるということである。

〈私は○○の子孫である〉と自覚すると、たとえ血縁はなくても、そのつながりが明確に存在するようになる。養子縁組や結婚によってその家に入るというような場合、○○の家に入ったとか、○○を親とするとかいった自覚がはっきりするならば、親祖先の生命というか、魂というか、そういうものが自分自身に入りこんでくる。

自覚とは簡単にいうと、要はハッキリと、シッカリとそう思い込むことだ。〈朝○時に起きる〉とハッキリと思い込むと、目覚まし時計をかけ忘れてもそのように起きられる。

血縁によるつながりを軽蔑したり、無視したりするのでは決してない。たとえ血縁が薄かったり、無い場合でも、自覚によって新たに親祖先のつながりができるし、それが現実に生きたものとなることを再認識せよと言っているのである。

自覚とは生命の自覚である。魂の自覚といってもよい。「生みの親より育ての親」といった表現の中には、この自覚による親の存在がいかに尊いものであるか明瞭に示されている。

このように、あるいはその血の流れの中によって、さらにその自覚によって、親祖先は自分自身の中にある。墓参して位碑を拝むことなどは、自分自身の中にあるその親祖先をよみがえらせるよすがであり、手立てである。

もともと墓という石や木の位牌の中には何もないではないか。墓を拝むとは、墓をシンボルとして親祖先を拝むことであり、それは結局自分自身の中にある親祖先を尊ぶことに他ならない。親祖先を尊ぼうとすれば自分を尊ばねばならない。勿論、偉そうに尊大に構えるのではない。己の存在の意義を高めるとは、同時に親祖先の存在の意義を高めることになる。親孝行の本質はそこにある。

祖先崇拝の根本は、自分自身の天職を尊び、その仕事に打ち込み、その心を他の人々に押し及ぼして、人を敬し、愛するところに帰結する。自分の中に親祖先が生きているからである。  (『丸山竹秋選集』より)

『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

9月8日 「研修なくして成長なし」

「木野君、人生は生涯学習だよ」と、幸之助によく言われ
続けました。
幸之助自身も人生は終生、勉強であると考え、日々精進
していく人こそ、本当に尊敬される人だと考えていたのです。

「学びとは、生きること」
「研修なくして成長なし」

幸之助は熱海会談後、137回壇上に立って、89歳まで
研修に命をかけました。