木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
4月18日 「出来ないでは出来ない」
「出来ないでは、出来ない」
「困っても、困ってはあかん」
「成功とは成功するまで続けることや」
と、幸之助に教えられました。
今日あきらめてしまえば、明日の成功は決してあり得ません。
最大の力は、人間自身なのです。
自分自身の「内なるエネルギー」に気がついた人は、他者の
「内なる宝」にも気づき、相手を心から尊敬するようになるの
です。
木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
4月18日 「出来ないでは出来ない」
「出来ないでは、出来ない」
「困っても、困ってはあかん」
「成功とは成功するまで続けることや」
と、幸之助に教えられました。
今日あきらめてしまえば、明日の成功は決してあり得ません。
最大の力は、人間自身なのです。
自分自身の「内なるエネルギー」に気がついた人は、他者の
「内なる宝」にも気づき、相手を心から尊敬するようになるの
です。
恋愛/安岡正篤一日一言0417
いかなる異性に恋するかは自己人格と密接に関係する。
すなわち自己の人物相応に恋する。
故に人は恋愛によって自己を露呈するのである。
木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―
4月17日 「善も悪も自分自身の心の中に」
幸之助は、「自分自身の中に、仏が存在する」と考えていました。
一人の人間の一念に、世界を変革する力があると信じていたようです。
心の持ち方、一念の方向性によって、すべてが決まるのです。
幸・不幸・成功・失敗は、その人の一念の姿勢次第です。
その心が決まったとき、成功への歯車は音を立ててまわり始めるのです。
倫理法人会の「経営者モーニングセミナー」会場には、
「朝起きは繁栄の第一歩」という標語が掲げられています。これは、倫理運動の創始者である丸山敏雄が、朝の勉強会を始めるにあたって昭和二十四年九月二十九日に制定したものです。当初は「朝起は再建の第一歩」とされ、やがて倫理法人会において「再建」の語は「繁栄」に改められました。
実際に、この朝起きの実践によって繁栄をつかんだ経営者の実体験は数多くあります。
たとえば、飲食店を経営するT社長は、多額の借金による事業危機に際し、毎朝早く起きることを実践。それが倫理経営を取り入れる契機となって、借金返済から事業拡大へとつながりました。
何故、朝起きによって標語に謳われたような「繁栄」が実現するのでしょうか。それは経営者にとって次のような効果が期待できるからです。
①余裕をもって一日のスタートを切ることで仕事に先手を打てる。
②目が覚めたらサッと起きることで、直観力や決断力が養成される。
③電話、訪問等に邪魔されることなく、静かに思索を深められる。
事業上の失敗や苦難を克服した体験報告の中には、必ず純粋倫理の観点からの深い反省と、重要な「気づき」を見出すことができます。そこから始まる自己革新の取り組みの多くが「朝」の立て直しを端緒としているのです。
実践ポイントとして、以下の三点を挙げることができるでしょう。
①時間に余裕をもって早く起きる。
②目覚めと共に切れ味鋭く起きる。
③震えるような喜びを抱いている。
そもそも、朝起きは「働き」の始まりであり、今日一日を生きる「生」のスタートに他なりません。
社長の起きる姿は、社員も、お客様も知らないでしょう。①~③のあり様は、自分だけが知り得るもの。朝の起き方は、作り飾り、ごまかしの効かない本当の自分の全てが表われる時といえます。
だからこそ、朝起きの一点を良くすることで、その好影響がジワジワと家庭や会社に波及し、結果的に、事業危機からの再起を果たすことができるのです。
又最初失敗すること、これは尊い月謝である。喜んで又改めてとりかかると、いつか大きい成功の栄冠がかがやく。
失敗の意義を説いた『万人幸福の栞』第12条の一節は、日本の国生み神話に淵源し、丸山敏雄はそれを「『初敗大成』の原理」と名づけました。失敗という苦難を「尊い月謝」であると受け止め、「喜んで又改めて」とりかかる。その出発点に「朝起き」があります。
さて、先の標語には再建の対象が記されておりませんが、丸山敏雄は、「国家再建」の思いを明確に抱いていました。それと自己の再建が切り離されていないところに倫理実践の肝があります。
一人ひとりの人生の立て直しが日本創生と連なっているとの自覚をもって、ひと朝ひと朝の目覚めを大切に、働き直し、生き直していきたいものです。いつか「大きい成功の栄冠」が輝くと信じて。
真剣と浮気/安岡正篤一日一言0416
又つねの御すすめに云(い)う。
往生(おうじょう)極楽をまめやかに思い入りたる人のけしきは、世間を一くねりうらみたる色にてつねにはあるなり云々。
…
法然上人(ほうねんしょうにん)の言葉である。
真剣と浮気とは正反対である。
適切な例を引けば恋愛を考えるがよい。
真剣に恋する女はわが恋人以外の世間の男一般は皆一向につまらない。
一くねり世間の男を白眼視するようでなければ誠の恋ではないのである。
上人のこの語、人の心をぴたりと掴むものがある。
軽薄者の到底及ばぬところと思う。
小児の母を頼むは、またく故を知らずただたのもしき心ある也。
名号を信敬せんことかくの如(ごと)し。
涙ぐまれる言葉ではないか。