私たちは、名字を案外粗末にしているのではなかろうか。
名字は自分の生命のつながりという親祖先からの積み重ねを表すものであるにもかかわらず、まったく無関心であったり、中にはいやな名字だと思っていたりする。
私たちの身体や精神は、自分自身がどこからか材料を仕入れてきてつくったものではなく、親、祖父母、曾祖父母と、代々受け継いで頂いてきたものである。よって名字は自分が勝手につけられず、また法律上も勝手に変えることができない。祖先からの魂と血と、伝統の自覚をうながす貴重なものが、この名字なのである。
どうしてこのような名字になったのかは、すぐに分かるものと、なかなか分からないものとがある。明治八年にすべての国民に名字をつけよとの布告が出され、あわてて家のまわりに小さな石があったので小石とつけたというものがある。牛や馬がいたので、牛田とか馬場とか、その場で決めてしまったというものもあるという。
どうしてそういう名字になったか、わけは分からなくても、それをよいように解釈すれば、生活に支えができる。悪山という人がいて、呼ばれるたびにいやな思いをしていた。しかしある漢学者から「それは自分をへりくだって称したものだ。自分から善人ぶるよりも、はるかによい名字である」と言われて、心がすっきりし、人に対して威張らないよう、高ぶらないよう、迷惑をかけないようつとめてきたところ、次第に信用を増して、事業も栄えるようになった。
陰間という人は、かげの間にいるとは何とゆううつなことだろうとおもしろくなかった。ところがある易者から「陰とは静、柔軟などを意味するので、おだやかに暮らしていると必ず財産をたくわえられる」と聞き、怒らずあわてず、心を落ち着けて働いていたところ、実際にそのようになって驚いたという。
こじつけだと非難してはならない。よいように解釈すると、物事はそうなるのである。妙な字のようでも、善意によいように受けて、そのように自覚してゆけば、実生活はそうなるのである。
あまりに姓名がよすぎると、かえって負けてしまい悪くなることがある。よすぎるというのは一方的な言い方だが実際はいい気になり油断したりすることがあるからだ。要は自覚の問題である。養子に入ったり、嫁にいったりして姓が変わると、その家の伝統を受け継ぐ。性格も次第に変わり、健康、不健康の点まで受け継ぐ。そうした家の自覚に立つからである。
ある藤原さんは、自分の祖先は藤原鎌足で、代々続いて支配者であったことが自慢である。何かにつけて古い系図を持ち出して得々と喋る。また始まったと次第に敬遠する人が増えて、ついに孤独で貧しい暮らしに落ちてしまった。これは一種のうぬぼれに依るもので、前にあげた名前負けの例に入るであろう。とにかくまず自分の名字を改めて自覚し直すことである。
(『丸山竹秋選集』より)
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