いざの時、どうするか

本人の意志や真情などに反して、思いがけなく起こる困った(不幸な)できごとを事故という。
この事故は日常生活にしばしば起きる。予想もできないようなことが、突然に起きる。
 乗りものには、いつも危険がつきまとっているのだが、このほか地震、火事、盗難、
急病その他による事故の種類は数え切れぬほどだ。そうした事故に出会ったら、
いったいどうしたらよいのか。
 事故の種類は数限りないほどあるのだから、それから逃れる手段もまた、実にさまざまである。地震がおきたらすぐ火を消すとか、ガスの元栓をしめるとか、また頭から何かかぶるとか、
机の下にもぐりこむとか、いろいろだ。しかしそうしたさまざまな手段方法の、
もうひとつ根本になるもの、すべてに共通するもの、それを知っておくことが必要となる。
それは何か。サッとひらめいた第一感によって行動する! これである。
「落ちつけ」とひらめいたら落ちつくのだ。「急げ」と心が叫んだら急ぐのだ。
「よくあたりを見廻せ」とパッと来たらただちにそうする。
「ガスの元栓をしめろ」と浮かんだらすぐそうする。「前にかがめ」と出たら、
そのとおりにする。
「なあんだ、そんなことか。それでいいのか」などと馬鹿にするなかれ。とっさの場合には、
それしかなく、またそれが最も頼りになるのである。せっかくパッとひらめいても、
ぐずぐずしていては、取り返しがつかなくなろう。
 冷静な第一感は、天から降り、地から湧く叡智(えいち)なのだ。あわてたり、怒ったり、
悲しんだり、怨(うら)んだりして心が動転していると、こうした第一感がひらめかなかったり、また、まちがった判断となったりして身を誤る。
 いざの時は、あわてもしよう。動揺もしよう。しかし「ここだ」と雑念を捨てる。その瞬間、ひらめくものが必ずあるのだ。
「きれいさっぱり、あきらめよ!」 
 とピンときたら、それはそれでよいのである。死を覚悟したために、
あわてる心が消え去って、開いた扉からゆうゆうと外へ出、九死に一生を得た例もある。
神の眼からみて、本当にだめなときは、何としてもだめであろう。それなら、それでよい。
やむを得ないのだ。しかし、せっかく叡智が「こうしなさい」と教えているのに、
それに反抗する必要がどこにあるのか。
「すぐ警察にとどけて処置を仰ごう」とピンと来たのに
「まあ、まあ、名誉にかかわることだから隠しておけ」と、次に出た欲心に目がくらみ、
取り返しのつかなくなった例などはあまりに多い。 
「これが果たして第一感なのか」と迷うこともあるだろう。
第一感と思っても正確手でないことがあるのは、勝負ごとの手段を選ぶときに、
しばしば経験する。しかし第一感かどうかと迷っているようでは、
それは第一感ではないと知るべきである。
 私欲に心がにごっているときは、まちがった判断が生ずる。
また平素気がついてもひきのばしを繰り返していると、いざのとき正しい判断はひらめかない。
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事故の時、平常心を失わず、第1感を頼りに最善を尽くします。