留吉という名前の人がいた。彼は自分の名前に不満をもっていた。彼の父親は五人の子を
なしたので、もうこれで最後に止めておこうと、こうした名前をつけたと聞かされたが、
なんとつまらないことだろう。
せっかく仕事を始めても、「もうこれで止め」という声が聞こえてくるような気がする。
飽きっぽい、長続きしない、そうした中途半端な気分になるような感じをもっていた。
だが、こうした留吉の人生にも、大きな転換期がきた。それはある雑誌を読んで、
彼が自分の名前について、大変な考えちがいをしていたと悟った時からだ。
一、子を愛さない親はいない。親は自分に幸あれかしと念じながら名前をつけた。
二、子は親の真意をおしはかり、たとえ気にいらないような点があっても、それをよく解釈して
自覚を新たにしてゆけば、その名前のように人生を有意義にすることができる。
こうした意味のことがらがその雑誌に書かれていたのだ。留吉はなるほどと思った。
そして新しく思い直した。トメは仕事を中途でやめるのではなく、わがままはここで止めという
意味なのだ。わがままはすべてここで止めと、そのつど思い起こして、一貫不怠、
やってやってやりぬくことだ。
このように気持ちを新たにして、「よい名前をつけてくれました」と毎朝晩、親に感謝しながら、仕事にかかるようにした。そうやっていると、飽きっぽくなるようなことはみじんもなくなり、
毎日張り切って働けるようになった。今わがままが出ているな、これを止めようと彼は
何かにつけて気づくことが多くなり、みちがえるような働き手に変わった。現在勤めている工場の係長に抜擢されることも、内定したという。
ここではっきり知っておきたいのは、名前を変えればよくなるといったような安易な考えで
それを実行しても、本当のところは無意味であるということだ。
大切なのは、あくまでも本人の自覚と努力である。自分の名前に対して親の愛情を思って感謝し、名前の中に建設的な意義を見出だしてこれを自覚し、そのように努力すると、
そこから自分の人生はそのとおりに切り開かれてくる。そこに親子の愛と敬とのつながりが、
大きな力となって生きてくる。
二郎とか三郎とかの二、三は、ただ順序を示すだけで何の意味もないという。
一応はそうだといえよう。しかし順序が示されてあるとは、すばらしいことではないか。
その順序を重んじて、それにふさわしく立派に生きようとつとめるところに、
見事な人生が開かれるのではないか。
肝心なのは、たとえどのような名前であろうと、そこに親の愛情を見出だして自覚を新たに、
意義のある人生を築こうと努力することである。
自分の名前から、明るさ、楽しさ、美しさ、面白さ、強さ、柔らかさなど、建設的なものを
見出だすことができればすばらしい。その人の人生は、そのとおりに輝かしいものとなる。
あるいは地味な豊かさを、あるいは静かな落着きを、その名前のように人生は百花撩乱と
咲き乱れているのである。 (『丸山竹秋選集』より)