病気や怪我は何のためにあるのか。それはまず、体の恩を知るためである。体が、こうして、
ここにあるとは、すばらしいことだと知るためである。
健康な時には、体のありがたさ、すばらしさが、なかなか分からない。視力のよい人には、
目玉のありがたさ、すばらしさが分からないのだ。腰のよい人には、腰のありがたさ、
すばらしさが、なかなか分からないのである。
私たちは実のところ「恩知らず集団」といってよいくらいなのだ。なぜか。あなたの顔から
目の玉をくりぬいたらどうなるか。すべては暗黒。歩けば、ぶつかる。手さぐりで、
トイレも大変。もちろん食事もろくにとれない。野菜の緑、トマトの赤も見えない。
「目玉さんよ、靴はどこか、映しておくれよ」と頼んだことがあるだろうか。そのような
頼みごとなど、一切しないにもかかわらず、目はまわりのものを克明に映し出してくれている。シャッターもおさず、調節もしない。フィルムも入れない。それでいてカメラ以上にパッチリと
まわりのものを映してくれるのが、あなたの目玉なのである。
実は、私はずっと目がよくて、永いこと視力も一・二はあった。目のよいのが、ひそかな
自慢であった。もちろん、そのころは目のありがたさ、おかげというようなことは考えたことも
なかった。遠くのものがよく見えるのも当然であり、それが幸福なのだという自覚さえなかった。
ところが、どうか。だんだん視力がおとろえ、七十二歳をすぎて、医者から手術をした方が
よいと忠告され、生まれてはじめて手術なるものを経験し、前よりよく見えるようになって、
まったくおどろいた。医術の進歩はもとよりだが、日常生活では、いかに目が重要であり、
いかにありがたいものであるかを、まざまざと実感することができたのである。「目玉の恩」
をわずかとはいえ、痛感することができたのである。
いうまでもなく、これは目玉だけのことではない。体のどの部分についても同じである。
なんとまあ、驚くべき私たちの肉体であることか。
専門家がくわしく調べれば調べるほど、私たちの体は霊妙偉大にできているのである。
それで病気になったり、怪我をしてようやく健康のありがたさに気づくのであるが、
それも不十分なことが多いようだ。
痛い! 苦しい! 不自由だ!
早く治して! なんとかして!
医者は何をしている! 助けて!
それだけに終わっているのではないか。病気になったり、怪我をしたりしたときは、
「ああ、いやだ」と思う反面、すぐに健康の恩を思い、生活のたて直し、気持ちの持ち直しを
計ることが先決だ。
「痛くてそんなことを思う余裕があるか」と言ってしまえば、それっきり。その病や怪我に
ふさわしい、心の、魂の改め方があると、死んでも銘肝して、素直に向上を目ざして
応ずることである。
病気は生活の警告である。警報器である。具体的に何を知らせているのかと、わが心に問う。
分からねば先輩、友人に聞く。この素直な向上の心が同時に恩を知る心である。