人生において、大窮地に陥った時の妙手として、倫理運動を創始した丸山敏雄は次のように
述べています。
事業の上でも経済の上でも、その他奇禍(きか)にあった場合でも、恐れ、憂え、怒り、急ぎ等々の私情雑念をさっぱりと捨てて、運を天に任せる明朗闊達(めいろうかったつ)な心境に
達した時、必ず危難をのがれることが出来る。(『万人幸福の栞』第十二条)
A氏が大病を患ったのは、四十歳を過ぎた頃でした。最初は、階段の昇り降りや坂道を歩く際に
呼吸が苦しくなるのを感じました。しばらく放置していたものの、念のため病院で診てもらうと、即入院となったのです。
病名は「肺動脈血栓塞栓症」。エコノミー症候群の一種で、両肺の血管に血栓が詰まり、
肺の血圧が高まって、呼吸が苦しくなっているということでした。
病院で二週間治療を続けましたが、症状は改善されません。その後さらに検査をすると、特定疾患
にあたる難病であることが判明し、三カ月後、手術をすることが決まりました。医師からは
「症状を改善することと、寿命を伸ばすために手術をします。リスクは高いので、百パーセント
成功するとは限りません」と説明を受けました。
毎日のように検査が続く中、A氏は不安に苛まれ、病院のベッドで自問自答する日々です。
ある時、担当の医師から「時間があれば歩くといいよ」というアドバイスを受け、少しでも不安が
紛れるならと、点滴を付けたまま歩き続けました。
手術を受ける三日前、院内を歩いていると、ふと息子の言葉を思い出したのです。
それは、最初に入院した際、「なぜこの病気になったのだろう」と妻に弱音を吐いた時、
「父さんが、母さんの言うことを聞かなかったからだよ」と言った言葉でした。夫を心配し、
「早く病院へ行って」という妻の言葉を、息子はしっかり聞いていたのです。
その時は気にもかけていなかったのですが、思い返せばA氏は、妻や息子の言葉を真摯に受
け止めてこなかっただけでなく、周囲の声に耳を傾けていなかった自分に気づかされたのです。
〈元気な頃は「自分が、自分が」という思いが強すぎて、一人ではどうにもできないことまで
抱え込んでいた。そのくせ失敗すると落ち込んでしまい、切り替えができなかった〉と自らを
省みたA氏。〈自分の力ではどうすることもできないのだから、先生にすべてお任せしよう〉と、心が軽くなるような感覚を覚えました。
そして、〈必ず手術は成功する。新しい自分に生まれ変わるんだ!〉という希望が胸の奥底から湧
いてきたのです。
約十一時間に及んだ大手術は、無事成功しました。退院後の経過も順調で、やがて仕事復帰を
果たすことができたのでした。
大病を通じて、自分がいかに多くの人に支えられているかを実感したA氏は今、
相手の話をしっかり受け止めて過ごしています。