知覚がにぶること、ぼんやりすること、もうろくすることを「ぼける」と言う。倫理ボケとは、
倫理について知覚がにぶり、ぼんやりした状態にあることで、これは政治、経済、その他についてもひろく言える。
新聞など、毎日のように倫理という言葉が出てくる。政治倫理、生命倫理、医療倫理、
経済倫理、教育倫理、道義的責任、その他一日のうち、どこかに倫理(道徳、道義)という
言葉の載っていない日はない。しかし、それだけ倫理的になっているか、どうか。
あまり多く使われるので、ボケているのではないか。「またか」というわけで、
新聞に書かれようが、テレビ、ラジオなどでいくら叫ばれようが平気になってしまう。
いわゆる倫理運動をおこなっていると、そして、倫理という言葉がやたらに多いと、
人によってはその言葉になれてしまい、無神経、無感動になったりする。「ああ、また倫理か」
といったような、馬鹿にしたようなぐあいである。まさに「倫理擦れ枯らし」である。
実践はやらないでボケッとしている。だから実践体験も出ない。そして他人の批判ばかりして
いる。自己自身への反省はない。いわゆる〝倫理〟の経歴が古い人ほど、そうしたボケに
なりやすい。
真理をある面において追究するのが学問であるが、学問ボケというのがある。定期的に
学校にゆき、教壇に立ち「学問、学問」と言っていると、いつしか慣れて新鮮味を失い、
追究心がうすらいでゆく。つまり自分の学問にボケが始まったのである。
学問、学問とあまり言わない人の中にも、真の学者がいる。本居宣長、南方熊楠などは
その道の学校すら出ていない。しかし生涯を通じて、学問に打ち込んだのであった。
総じて先生と人からも言われ、自分もそう思っている人は危険である。
教える立場からの反省として見れば、だいたい先生と呼ばれるだけの資格のある人は、
厳密に言うといないのだ。みんな生徒であり、学生なのである。「先生」と呼ばれたら、
内心ふるえがくるようでなくてはいけない。いい気になっていると謙虚さをなくし、先生擦れ、
先生ボケが始まるからである。
前にもどって、生活倫理を学ぼうとし、また学んでいる人は、すぐにこの倫理ボケが始まることを警戒する要がある。新鮮さを感じなくなったとき、感動がうすくなったときが、あぶない。
先輩とか先生と言われだすと、いよいよ危ない。
あの孔子でさえ、孔夫子と呼ばれることを喜ばず、「まだ生(この世)のことさえよく
知らないのに、どうして死のことを知っていようか」と、あくまで謙虚であった。
「論語読みの論語知らず」と言うが、「論語」の内容など、同じところを何度読んでも味わいは
つきないと思う。「論語」を、一回りか二回り走り読みをして、「もうわかった」などと感激を
なくしたときが「論語知らずの論語ボケ」となる。
同じように「『万人幸福の栞』読みの『栞』知らず」で、『栞』ボケの人が、いつでも
増えつつあるのではないか。自分自身の内容をしっかり見つめ直そう。