タイトルを見て、「新しい連続ドラマ?」と思う方がいるかもしれません。
「慣れ」と「飽き」をカタカナで表記したものですが、通常、漢字で書かれる字が、
見慣れないカタカナになると、途端にイメージしにくくなるものです。
何かに「慣れ」るという状態は、心の平静さを保てる反面、心に隙を生じさせることもあります。仕事や人間関係でも、時の経過と共に慣れが生じ、それは時に緊張感を喪失させ、
失敗の遠因にもなりかねません。
倫理法人会で学ぶA氏は、入会して二十年になります。「モーニングセミナー(MS)で
『万人幸福の栞』を読むたびに、今でも毎回新たな発見がある」と語ります。
一方、B氏は入会して一年です。当初は所属単会のみならず、他会のMSにも積極的に
出席していました。しかし、次第に講師の話も耳にしたものが多いと感じるようになり、
新鮮味がなくなったといいます。退会も考え始めました。同じように学びながら、A氏とB氏の
差はどこにあるのでしょう。
慣れが進むと、「飽き」の状態に陥ることもあります。飽きは目の前にある学びのチャンスを、
自ら逃してしまう心です。
そうした意味で、慣れが黄信号だとすれば、飽きは心に灯った赤信号だといえるでしょう。
物事にすぐ飽きてしまう人は、どこに行っても成長の芽を自ら摘み取っているようなものです。
前述のA氏にも、かつてB氏と同様の時期がありました。その時、先輩からこう
問われたそうです。
「セミナーで聞いたことをどれだけやってみた?」
A氏は返す言葉がありませんでした。「あの問いのお陰で今がある。〈どれだけやっているか〉
と自分に問い続けている」と語ります。
儒教の祖である孔子は、弟子にこう諭しました。「これを知るをこれを知ると為(な)し、
知らざるを知らずと為せ。是(こ)れ知るなり」と。すなわち、「知らないことを
知らないとする。それが知るということだ」というほどの意味になるでしょう。
孔子の教えにならえば、世の中には大別して二つのタイプの人がいます。①知らないことを
知らないと自覚できる人。②知らないのに知っていると錯覚する人。①は成功の秘訣を
知っている人であり、危いのは②の人でしょう。
「知る」とは、知らないことの方が多いのだと、すなおに銘肝することから始まります。
そこで初めて「知っているつもり」という錯覚から脱却できます。しかし、
それで終わりではありません。
純粋倫理において「知る」とは、実践を伴うものです。実践なき机上の学びは雑念に過ぎず、
それは時に人を責める武器になることさえあります。②の人が危いのはそのためです。
この学びは、あくまでも自身の学びであり、人に向けるものではありません。
慣れや飽きを感じた時ほど、自己を磨く最良のチャンスです。まずは今の自分をすなおに
受け入れ、心新たに行動に移した時、また一歩成長できるのです。