夫婦のあいだに、倦怠期がくるというのは、愛情のある証拠といえましょう。なぜならば、倦怠期すなわち飽きがくるということは、以前は愛情がこまやかだったけれども、今はうんざりして、
それほどでもなくなっている、ということにほかならないからであります。
いいかたをかえると、仲がよいから倦(あ)きがきているのです。すなわち、夫婦の倦怠期とは、愛情の沈潜期(ちんせんき)であります。愛の休憩期といってもよいでしょう。和合の状態が
一段落して、つぎの前進への準備にとりかかっている時期である、ともいえるのです。
日本をはなれて、しばらく外国に行っていると、日本のよさがつくづくと偲ばれます。
日本のよさの中に、はまりこんでいると、日本のよさがわからなくなってきます。これも一種の
倦怠期に陥っていることになります。太陽の恩恵などにいたっては、人間はほとんど倦怠期
づくめで、無自覚のまま、すごすことが多いといってもよいでしょう。
倦怠期にある夫婦は、おたがいの良さの中に酔いしれて、意識不明になりかかっているのです
から、思いきって、つめたい水でも、かぶってみたらよいのです。つめたい水をかぶれとは、
「目をさまし、心の窓をひらいて、相手を客観視せよ」というのです。
いつも聞いている相手の声……それは、いつも変わらない音声のようでも、じっときいていると、あるときは、調べ高く、あるときは、やさしさにあふれていることに、気づきます。ただ、
いまの自分がそれに気がつかない、発見できない、というだけにすぎません。
倦怠期とは、相手のすばらしさを、さらにさらに、たくさん掘りだすべき時期ということに
なります。たんなる倦怠期として終わらせるか、あるいは、自分が芸術家のようになって、
相手の中によりすばらしいところを見つけだすか、いずれも、あなたの自由であります。それはちょうど、苦難をたんなる苦難として終わらせるか、あるいは、苦難は幸福にいたる門であると
自覚して、雄々しく踏みいだすかどうかが、あなたの自由であるのと同じです。
自分の配偶者に、真の「美」を発見する、あるいは相手のすばらしさをみつける、
ということは、自分がそれだけ芸術家になるということです。具体的には、あなたの配偶者を、
あらためて、よく見直すということによって始まるのです。じっと見ていると、その糸口は
見つかります。それを、ひとつひとつ、ほぐしてゆくのです。これを「客観する」というのです。
このようにして、ふたたび愛情の源泉にかえりつきますと、その内容は以前よりも、
さらに高くもなり、深くもなり、豊かなものになってゆくのです。
最後に一言、あなたの配偶者は、あなたが現在知っているより以上の、すばらしさ、
よさをもっていることを、断言します。あなた自身も、今のあなたが自覚している以上に、
よいところすばらしいところをもっているのです。人はその面では、だれでもお互いに
認識不足者であるといってよろしいでありましょう。
(『ここに倫理がある』より)