いつもと変わらない出勤時の景色。社員と交わす挨拶。
使い慣れた生活必需品。何気ない夫婦の会話――。日々繰り返されるこうした日常の中にも、自分にとって必要な気づきは存在するものです。
N氏は、優秀な経営者です。カミソリのような切れ味抜群の経営判断と采配は、一目置かれています。業績も順調に推移し、毎年、高い利益を上げていました。
その一方で、経営者の仲間内からは、「あいつは理が立ち過ぎて、とっつきづらい」と言われることがありました。何事も理詰めで説明しなければ納得できない性分で、社員には「融通がきかない社長」などと陰口を叩かれていました。社員の離職率も高く、人材育成に課題を抱えていたのです。
N氏には、同業者の友人S氏がいます。強いリーダーシップを発揮するタイプではありませんが、S氏の会社は、とにかく社員の定着率が良いのです。経営面では、大きな利益こそ上げないものの、
常に安定していました。
ある時、同業者同士の旅行があり、N氏は、S氏と三日間寝食を共にすることになりました。
三日目の朝のこと、カミソリの替え刃を何気なくゴミ箱に捨てた時、S氏から、「その刃はどれくらい使っていますか」と尋ねられました。N氏は「ヒゲが濃いから一か月以内で交換しています」と当たり前のように答えました。
するとS氏は、自分のカミソリを見ながらこう言うのです。
「このカミソリ、実は三カ月使っていましてね。まだまだ使えそうなので、いつも〈ありがとう〉って感謝してるんですよ」
そう言って、カミソリに向かってさりげなく一礼しました。
N氏はその様子を見ながら、この三日間のS氏のふるまいを思い出していました。S氏は誰にでも笑顔で挨拶をしていました。脱いだ靴は手で揃えていました。服のたたみ方、風呂の入り方、一つひとつを丁寧に行なっていました。
はじめは「育ちが良いお坊ちゃまだから」と思っていましたが、旅行中、極貧の中で育った生い立ちを聞き、まったくの思い違いだったことを感じていたのでした。
数日後、N氏は思い立って、S氏の会社を訪問しました。
駐車場には社員の車が整然と並んでいました。会社に入った瞬間、社員が一斉に立ち上がり、気持ちよく挨拶をしてくれました。経理を担当する奥様が、笑顔でおいしいお茶を出してくれました。先代であるお父様の写真が、創業精神と共に掲げられていました。
目にしたものすべてが、自分の会社には無いものばかりでした。
なぜS氏の会社が安定しているのか。社員が定着するのか。N氏はハッキリと悟りました。S氏は、経営者である前に「人」として、周囲の人や物に対する感謝を持って、日常生活そのものを大切に生活していたのです。
「人は鏡、万象はわが師」です。何気ない日常生活や身近な人の中にこそ、自分を高めるヒントがあるのではないでしょうか。