世の中には善人もたくさんいるが、悪人もかなりいる。悪人がいなかったら、どんなによい世の中だろう。神さまはなぜ悪をつくったのか。いったい、いつになったら、この世から悪人はいなくなるのだろうか。
こうした考えはまちがいである。なぜならこれは、皆美人だったらよい。おいしいものばかりだったらよい。いつも晴の日ばかりだったらよい、などと同じだからである。
悪いことをしてもよい、などと決していうのではない。法を犯してはならないし、犯せば罰せられるのは当然である。しかしよくよく考えてみると、悪人があるからこそ、善人があり、悪が存在すればこそ、善も存在する。ここをもっと掘りこんでみよう。いったい悪人は善人にとって何なのか。
賄賂をたくみにやり、税金をごまかし、法網をうまくくぐって私服をこやしている悪人がいる。この事実に対し、憎悪や軽蔑や公憤をぶちまける。そして攻撃する。当然のことだ。しかしさらに深く、また高い立場から見るとどうなるか。こうした悪人は、一般の人々に対する教師なのだ。贈収賄のよくないこと、税金をごまかすことの誤り、法網をくぐってはならないことなどをいろいろと教えているのである。
一般に泥棒は「泥棒すべからず」と教える大先生である。もともとすべてはわが師であるから悪人といえどもわが師であって、自ら手本となり、このような悪をなすべからずと教え導いてくれる大恩人なのである。
本当は私たちは刑務所に対して頭をさげるべきなのだ。犯罪者に対して襟を正して敬礼すべきなのである。
あんな奴、バカヤロウなどと軽蔑したり、憎悪したりするのは、まさに本末転倒である。このように、いわゆる悪人を軽蔑し憎悪する時、善人とうぬぼれている人は、たちまち悪人となるのである。
「そのようなことをいっても、実際となると、ああした人たちを恩人とか、教師とか、まして大先生などとは、とうてい思えない」という人がある。なるほど、それはたしかにあるだろう。
それだからといって真理や倫理を曲げるわけにもいかない。それはあたかも自動車などのスピード制限が、実際にはなかなか守りにくいからといって、交通規則を曲げるわけにはゆかないのと似ている。天地がひっくり返っても、真理は変わらないし、倫理はゆがめられない。
このように人間存在の実相を高く、深く洞察してゆくと、超越的な意味では、すべてが善となり、いわゆる善悪とは一般的なものにすぎなくなる。演劇、映画などで、悪役がなければおもしろ味がなくなるように、人生に悪人がいなかったら、善の善たる意義も成り立ちえないであろうから、その意味では悪人も善人である。すべてがよしとなる。
繰り返して言うように、いわゆる悪は為すべきではない。ただその認識の仕方が、わが人生を味わい深い豊かなものにするか、あるいは砂を噛むような無味乾燥なものにするかの分かれ目となる。家庭や社会にある善と悪とのさまざまな問題に対し、こうした自覚を高め、深めてゆこうではないか。 (『丸山竹秋選集』より)