親を亡くした人に、「あなたの親や祖先は、今どこにいるのでしょうか?」と尋ねると、「天国にいます」とか、「あの世にいます」とか答えるであろう。中には、「墓の中にいます」とか、「どこにもいませんよ」などと憮然とする人もいる。
はたしてそうした答えの通りであろうか。では天国とは? あの世とは? などと問いつめてゆくと、はたして満足な答えが得られるのであろうか? 大変難しいようだ。
では親祖先ははたしてどこにいるのか? その答えは実ははっきりしている。
「親祖先は自分自身の中にいる」
たとえ親祖先の肉体は今はなくなっているとしても、第一、生物学的にみると親祖先の血はまさしく自分自身の中に流れている。私たちの肉体を構成している細胞それ自体がすでに親祖先のものである。父そのもの母そのものと全く同じではないにしても、この私の身体の中にすでに父母があり、そして祖先があるのである。これは科学的にも否定し去ることはできない事実である。
第二は、その自覚である。つまり親祖先は自分の自覚によって自分の中〈肉体〉にあるということである。
〈私は○○の子孫である〉と自覚すると、たとえ血縁はなくても、そのつながりが明確に存在するようになる。養子縁組や結婚によってその家に入るというような場合、○○の家に入ったとか、○○を親とするとかいった自覚がはっきりするならば、親祖先の生命というか、魂というか、そういうものが自分自身に入りこんでくる。
自覚とは簡単にいうと、要はハッキリと、シッカリとそう思い込むことだ。〈朝○時に起きる〉とハッキリと思い込むと、目覚まし時計をかけ忘れてもそのように起きられる。
血縁によるつながりを軽蔑したり、無視したりするのでは決してない。たとえ血縁が薄かったり、無い場合でも、自覚によって新たに親祖先のつながりができるし、それが現実に生きたものとなることを再認識せよと言っているのである。
自覚とは生命の自覚である。魂の自覚といってもよい。「生みの親より育ての親」といった表現の中には、この自覚による親の存在がいかに尊いものであるか明瞭に示されている。
このように、あるいはその血の流れの中によって、さらにその自覚によって、親祖先は自分自身の中にある。墓参して位碑を拝むことなどは、自分自身の中にあるその親祖先をよみがえらせるよすがであり、手立てである。
もともと墓という石や木の位牌の中には何もないではないか。墓を拝むとは、墓をシンボルとして親祖先を拝むことであり、それは結局自分自身の中にある親祖先を尊ぶことに他ならない。親祖先を尊ぼうとすれば自分を尊ばねばならない。勿論、偉そうに尊大に構えるのではない。己の存在の意義を高めるとは、同時に親祖先の存在の意義を高めることになる。親孝行の本質はそこにある。
祖先崇拝の根本は、自分自身の天職を尊び、その仕事に打ち込み、その心を他の人々に押し及ぼして、人を敬し、愛するところに帰結する。自分の中に親祖先が生きているからである。 (『丸山竹秋選集』より)