自分のことを心から思ってくれる親の存在ほど、ありがたいものはありません。
〈子供の頃、どれだけ自分を可愛がってくれただろう〉〈病気の時、寝ずに看病してくれた〉〈苦労して働いて、学校を出してくれた〉
たとえ親が亡くなっていたとしても、こうしたことを思うたびに、心が温かくなるものです。
では、親に直接的な愛情をかけてもらえなかった人は、どうでしょう。世の中には、親の愛情を感じられない人もたくさんいます。叱られたり、粗末に扱われたことしか思い出せない人もいます。そうした人は、親を恨み、憎んで当たり前なのでしょうか。
いや、決してそうではありません。親に対する感謝は、生命付与の一事に尽きるのです。
わが生命は、父母によってこの世に生み出されました。親がいなかったら今の自分はいません。このことへの感謝は無条件です。
生命付与という点では、父母もまた、祖父母に生命を享けています。祖先がいなければ、両親も、今の自分も、子供も、孫たちの存在もありません。
「父母(ちちはは)も その父母も 我身(わがみ)なり われを愛せよ 我を敬(けい)せよ」
これは二宮尊徳翁の道歌です。 父母、その父母と連綿と命が続いてきたからこそ自分の命がある。体の中に、親祖先の尊い命があることを思えば、自分を愛し、自分を敬うような生き方をしなければならないということです。同時に、わが生命のもとである親祖先を大事にすることが、自分自身を大切にすることでもあるのです。
亡き人の墓参は、死者を大切にするという心のあらわれです。祖先の墓を大事にし、供養していくことは、祖先を喜ばせることになります。ひいては自分の生命を大切にすることにほかなりません。
若い頃、さんざん親不孝をしてきたというAさんは、墓参を月一回、コツコツと三十年間続けてきました。お墓を大切にすることは、自分自身を大切にすることであると気づいたからです。
Aさんはまず、お墓周辺をきれいに清掃してから、親祖先に近況を報告し、今あることの幸せに感謝して、お礼を述べています。時には自身の若い頃の過ちや親を悲しませてきたことを反省し、墓前で詫びることもあります。
忙しいAさんにとって、この墓参の時間は、親祖先と向き合い、自分と向き合う貴重な時間であるといいます。「だから墓参は自分のためでもあるのです」と語るAさん。月に一度、その時々の決意を親祖先の御霊に誓い、気持ちを引き締めることが、なくてはならない習慣となっているのです。
自分の生命の元である親に純情な心で対座する時、その生命はいよいよ純化して、思いがけない力が湧いてきます。
Aさんの場合は月に一度ですが、人それぞれに事情は違うでしょう。毎日、週一、月一、年一と自分なりに決めて定期的にお墓に参ることで、自己の生命力を更に輝かせたいものです。