「経営」という言葉は、何を意味するのであろうか。
辞書によると「規模を定め、基礎を立てて物事を営むこと。工夫をこらして物事を営むこと」と説明してある。これらの意味によると、社長や重役たちだけが経営者というのは、おかしなことである。なぜなら、平社員だって、それぞれの受持ちの分野で、規模を定め、基礎を立てて物事を営んでいるからである。
社長は経営者である。しかし電話の交換手もエレベーター嬢も経営者である。電話の具合について、その取り扱いについて、自分の関係する範囲において、それなりの仕事の組み立てをして仕事をする。
受付の仕事にしても同じだ。受付とは玄関口であり、最も難しく、そこでの工夫や配慮などはかなり深く必要とされる。その意味からも受付嬢は経営者である。
使用主あるいは使用人とかいった考え方がある。「自分は人を使っているのだ。そして使用している者に、その働きに応じて金を払ってやっている。自分は経営者なのだ」といった考えである。
しかしこれは「使っている」という考えに間違いがある。使われている者の方から見れば、そこで働いてやっているからこそ、その仕事が成り立つのであって、その意味からは使用人が使用主を使っているということになる。使用人が一人もいなくなれば、使用主は悲鳴をあげつつ、その仕事を辞めざるをえない。
このようにみてくると、いわゆる労働者という概念も問題になってくる。社長も部課長も労働をしているのであり、なにも一般社員だけが労働をやっているのではない。精神労働という範囲では、責任が重くなるにしたがって、労働の内容も重くなるのが普通であり、その意味からは社長は最も大きな労働をしているということになる。
働きという仕事の本質からみると、すべてが経営者、すべてが労働者であり、それぞれの分野において仕事に勤しむべきものであり、経営者と一般社員との対立敵視などという問題は、根本的にあるべきものではないのである。
それでは一般の社員と社長と、どこが違うかというと、責任の重さと広さが違うといってもよい。
エレベーター係は、エレベーターのことに責任があるのであり、受付のことにはない。
しかし社長は全体として、責任を問われることになる。エレベーター係のミスは、同時に管理課長の責任でもあり、社長の責任でもある。だから社長は部外者に対して「エレベーターのことで、ご迷惑をおかけしまして、どうもすみません」と詫びなければならぬこともある。
部長は部長として、部全体のことについて責任がある。社長は全体についてあるというわけである。
指揮とか掌握とか、そうしたことについては、もはや言う必要はない。主とか長とかいうのは、そうした責任とか指揮とか掌握とかのありかたを示すものなのである。
しかしながら、ここでいわゆる経営という面については、すべての人がそれに携わっているという根本を見失ってはならないのである。