現代人は、大変なことを忘れてきた。「後始末」である。特に、個人として、家庭、工場、会社その他などから出したゴミの類である。
そのために人間生活の破綻が迫っている。中には、そういう事実もまだ知らずに、あるいは知っていても、われ関せずの利己的な態度で、どしどし自分のゴミを放出している人たちがいるのである。
どうしたらゴミ処理の名案を、生み出すことができるであろうか。政治的解決の手段は当然必要だが、一方私たちが、今日から早速自分の出したゴミに対して、後始末をよくするとともに、できるだけゴミを出さないで済むように、実践することだ。
だがゴミというものは、どうしても出さなければ、生活できないのも事実である。だからゴミ処理という後始末をよくするためには、根本の心がけが、もう一つ奥にあるべきだ。
それは出したゴミに対して、感謝の念を持つことだ。つまり、「わがゴミよ、ありがとう!」と、始末することだ。なぜそうするのが、根本的になるのか。その訳はこうである。
第一にゴミといっても、それは有益なものとして、いずれまた自分にかえってくるものだからである。
一般的にいって、ゴミの類は、また私たちのために形を変え、中味を変えて役立ってくれるようになるものなのである。だから、そうしたものを捨てる時、わが子を旅立たせるような気持ちで、ゴミを送り出すのが本当なのだ。
第二にゴミといっても、もともとは必要なものだったからである。包み紙にしても、物によってはそれがなければ困るようなものもあるのである。たとえば小包を送るのに裸のままではどうしようもあるまい。包み紙あっての小包なのだ。どうして軽視することができようか。
今まで使っていた電器製品など、役に立たなくなると、ポンと投げ棄てて、顧みもしないようだが、とんでもないことだ。人間だって、さんざん使われ、役に立たなくなったからといって、ポイと棄てられてしまったのでは、怨みと立腹しか残るまい。物でも同じことだ。
「今までごくろうだったね。お前の用も終わったようだから、やむなく処分させてもらうけれど、また形を変えてやってきて、役立っておくれ。どうもありがとう。ではまたね……」
といった心で処分するのが当然だ。このように美しい、本当の人間らしい愛情で後始末をするとき、またはそうするような人の所で、物は生き生きとその個性を十分に発揮できるようになるのである。
総じて人類は、科学技術の進歩とともに、そして生活が便利になっていくにつれて、大自然の尊さ、物のありがたさなどを忘れてしまい、利己主義的なわがまま勝手な生活にうつつをぬかし、そのためいろいろな公害を招いて、われとわが身を滅ぼしつつあるのである。
いろいろな仕組みは複雑になってきているが、もとは簡単なのである。繰り返して言う。「ありがとうと、後始末をよくする」という簡単なことを実行することだ。これによって日常生活がぐっと引き締まり、生きる喜びが増えてくるという事実を体験することだ。