利を超えた信

警察庁の調べによると、平成27年度の全国交通事故件数は53万6899件、交通事故死者数は4117人だったそうです。一日で平均10人以上もの方が亡くなっていることになります。

一方で、平成27年度の自動車保有台数は、6051万7249台でした(一般財団法人自動車検査登録情報協会調べ)。一家に一台以上保有している家庭も多くあります。

近年、交通事故の件数自体は、減少傾向にあります。安全への様々な企業努力や交通ルールの厳格化などがその要因として挙げられるでしょう。

とはいえ、それでも年間4千人もの方が亡くなられていることを考えると、やはり自動車は危険と隣り合わせの乗り物であると言わざるを得ません。そして、私たちはそのことは承知の上で、自動車を利用しているのでしょう。

自動車のお陰で、多くの人や物を運ぶことができます。雨風をしのぎながらスピーディーに目的地へ到着することができます。密閉された私的空間にいながら移動ができます。これほど〝便利〟な乗り物はありません。

つまり、私たちは便利さと危険とを天秤にかけて、便利さを優先しているのです。その選択は「利」における選択なのです。

ここで歴史を遡って、ある逸話を紹介しましょう。

天正15(1587)年、大坂城での茶会で、参会者が茶を一口含んで、回していきました。盲目で重い病を患っていた大谷吉継の番が来て、茶を一服すると、鼻から膿(うみ)を垂らしてしまいました。太閤の御前でもあり、本人も参会者も背筋が凍りつきました。

しかし、次の座にいた石田三成が、「頂きまする」と言って、膿ごと一気に飲み干したのです。

その後、大谷吉継は、関ヶ原の戦いで、東軍有利を悟りながらも西軍・石田三成につき、命を散らせました。この逸話は、相手に貸しを作ろうという打算や己の私利私欲を超えて、相手を全面的に受け入れ、無心で物事に当たる時に、思わぬ結果が現われることを私たちに教えてくれます。

信ずるという事は、事実そうであるから、それと信ずるのではない。そうであることは信ずるも何もない、もうすでにそうである。ほんとうに信ずれば、そうなるのであり、必ず信じた通りにさせるのである。

(『万人幸福の栞』第十五条)

私たちは日々、様々な人と接しています。よくやってくれるから信用する、自分のことを理解してくれるから信頼するというのは、いずれも「利」における信用や信頼です。

しかし、「ほんとうに信ずる」とは利害得失を超えた信だといえるでしょう。信じられぬ、どうなるか分からぬ、それでも信じるところに倫理実践の真価があります。

たとえ自分のことを理解してくれなくても、思い通りにならなくても、人や自然、世の中を信じて、さらには自分を信じて事に当たる時、これまでとは違った結果、すなわち倫理実践における体験が生まれるのかもしれません。