よいことの実行を語ろう

よいことをしたとき、人に打ちあけたくなることがしばしば

ある。これまた人情の自然というべきであろう。

よいことの実行を人に告げる場合(これを倫理の「実践報告」といおう)気をつけなければならぬことがある。第一に自慢し、偉ぶる気持で告げてはいけないということ、第二に、かといって黙りこんでしまうのでなく、人や社会のお役にたてたらという謙虚な気持で時には進んで、報告することも必要だと知ることである。

第一については、わかりきったことと思わず、深く自戒する必要がある。

「きょうはね、おばあさんが横断歩道を渡れずにうろうろしていたから、手をひいて渡してあげたんだよ」

親しい人に、こう何気なく打ちあけ、そのままの気持でいるのはよい。ところがうっかりすると「こんないいことをしたぞ」といった自慢げな、得意な、人を見下す気持が、ひょいと頭をもたげるのである。「偉ぶるのは馬鹿の始まり」というが、その偉ぶる心は、何かよいことをしたとか、している時に知らず知らずのうちに起り易い。

この「知らず知らずのうちに」というところが人間の弱点というか、恐ろしいところで、よいことをしたぞという自覚が、ややもすると偉ぶる、いわば悪を生み出すもとになる。

だから、よいことをしたと思ったら、これは自分の力でやったのではなく、大自然がチャンスを与えてくれたおかげでできたのだ、ありがたいことだといった、へり下った気持をもつことだ。そうした気持に自然になれるようにまで自分自身を高めるよう、平素の心がけを磨いてゆくことだ。

つぎに第二の点について。よいことをしてもあえて口に出さず、黙りこくって我慢している人がある。ちょっと考えると、よいようだが、しかし、これはまた何と不自然なことであろう。話すことが悪いのではなく、自慢することがいけないのだから、話したり、うちあけたいときには自然のままにそうすべきであろう。それを我慢し、押えつけるのは、それこそ一種のうぬぼれともなり、偉そうな心に通ずるおそれがある。またよくない強情ともいえよう。

その時、その場の雰囲気、また集いの趣旨などによっては、進んで自分のしたよいことを報告したほうがよい。祈るような心で、自慢するのでも、偉ぶるのでもなく、しごくあたり前に淡々として報告するのである。

口は食べるためにもあり、話すためにもある。その口から災いも出るが幸いも生ずる。その幸いが、とくに人の参考になり、社会のためにもなる意味のものであればあるほど、すばらしいではないか。

これを聞いた人が共鳴したり、また実行しようとする気分をすこしでも高めるようなことがあれば、それだけでも意義があるのではないか。現代の混乱した世相のもとでは、こうした実践報告こそさらに広く望まれていると思う。

 

福岡市東区香住ヶ丘 リフォーム専門店 株式会社 キョウエイホームより