良書を読む

本はきらいだ。読む暇もない。でもボケたりはしないぜ」と豪語している人がいた。確かに仕事はよくやるし、元気だ。ところが停年を過ぎると、物忘れも多くなり、言うこともチグハグになった。自分の意見を一方的に押し付けたり、世情への批判もピンボケになってしまった。そして淋しそうにひっくり返って、テレビばかりうつろに見ている。

頭の働きや知覚がにぶることをボケるというが、もっと広い意味では、自分のゆき方、身の処し方、今日、明日のやり方などがはっきりせずボーッとなっていることなども、ボケのひとつである。肉体的には二十歳を超えたあたりからボケ(衰え)が始まっているともいうし、年配になると精神的に悪知恵の方がよく働いて、その結果、まわりからうとんじられたり、案外損をしている。これも実は人生的ボケのひとつである。

とにかく人生は自分のためのことと、他人のためのこととの間にあって、交錯して、微妙に悲喜交々の綾(あや)を織りなしている。古来この綾について、いろいろと先人は研究し、著述をし、言い残してきた。良書を読むと、そうしたことが分かるようになり、折にふれ、時にのぞんで自分の生活の支えとなる。人生のボケかたにもいろいろとあるので、良い本をまじめに読むと、自然にそのボケが少なくなる。それは読むということの訓練によるところが多い。

老人性痴呆症の専門家である橋爪孝次博士も「活字から離れてテレビばかり見ていたり、活字離れをしていくと社会全体としての能力が落ちてしまうのではないでしょうか。社会だけでなく、個人でも同じです。活字を見ることは、人間の頭の活力、判断力、想像力、記憶の整理などに必要なことなのです」と述べておられる(『ボケの原因は30代・40代にあった』かんき出版)

寝ころがってテレビを見るのも悪いとは言えないが、安易に眼に入ってくるものには、必ずしも強くは残らないところがある。やはり一字一字を追ってまじめに読む労力は、頭をボケさせないし、とくにそこから得られた真理は、人生ボケを少なくするのに役立つ。

どうしてよいか分からないことは、しょっ中である。そうしたものに光をあたえる道はいろいろとあるが、然るべき良書を自分で読んだり、何人かと読みあって意見を交換したりするうちに、ハッと心にひらめくものを与えられることが多い。これを学習という。こうした良書の学習は、個人でも多人数でも効果的である。

毎日が忙しくて、読書の暇などないという人は実際にいる。一字一字読むのに苦労するという人もいる。しかし何も学者やもの識りや理屈屋になるのではない。日常の生活の指針となり、実践の手引となるものを読書から得ようというのである。週にひと時、月に二時、読書の時間がとれないことはあるまい。その時間がとれないとは、すでにボケているのではなかろうか。(月刊『新世』一九九三年二月号「新世言」より)

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