病気でしばらくの間、絶食を余儀なくされていた人が、うすいおかゆを出されたとき「おお神様」と叫んで、まだ箸をつけていないのに元気をとりもどしたという実話がある。私たちは朝に食事をしたかと思うと、もう昼の、そして夜の食事……というようにまことに忙しい。朝から晩まで食べることの連続である。この食事ができなくなったらどうなるか。
食べ物を食べるという大仕事は、じつは政治、経済、芸術、さらには宗教や倫理道徳などの根元(もと)である。食い物がなければ人間生活は維持できない。いや、生きていけないのである。生まれ出るとすぐ母親は乳を与えるではないか。生きているとは食べて栄養を摂取し、消化していることである。死んでいるとは食べられないということである。
生きていない人間は、美を、芸術を創造することもできないし、鑑賞もできない。ましてや人間の経済活動はその始めから終わりまで食事を軸にしているといってよい。表面の絢爛(けんらん)や複雑多岐性にまどわされて、その基礎をなす生命のもと――食事の大切さを忘れてはならない。これは物質偏重なのではなく、生存の根元を忘れるなという意味である。生命をたたえる者は、同時に食べ物を、食べることをたたえるのが人間として当然のことなのである。
大昔の人たちは、こうした面において純真純情であった。日本では古来、トヨウケ(豊受)の大神(伊勢の外宮)とかウカノミタマ(宇迦之御魂、倉稲魂)の神(稲荷神社)などといって食べ物を神として尊び、あがめ、たたえてきた。
『旧約聖書』では、父なる神は荒野のホレブ山でモーゼに「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地」へ導くからと告げ、エジプトからの脱出を命じている(「出エジプト記」三の八)。
神が人類に食べ物を与えたり、時にはその作法を教えたりするのは、各国、各民族において極めて重要なことである。宗教の根本は神であるが、その神の恵みとしての食べ物こそ人間生活のもとであり、食べ物、その作法・儀礼(神への供物など)は宗教のもと・重要な幹をなしていると言える。
こうした古代の人たちの、ひたむきなスナオな気持ちを現代人は忘れることが多くなっているのではないか。食べ物についての心情、食べ方についての道が自覚されて倫理道徳となる。食事は礼儀のもとなのだ。もとより感謝や畏敬や讃嘆などを中軸としたもので、これらをそれぞれ謙虚に反省しつつ、日常の生活に活かしていくことこそ肝要である。「いただきます」「ごちそうさま」という簡単な挨拶さえ、ろくに言えない人たちが多いとは嘆かわしい限りではないか。
この点、家庭教育はまことに重大である。子どもは、親のまねをして育つ。家庭は教育の基盤であるが、子どもの教育はまず食べることがその基礎となろう。自分の生命のもとを軽視して、他の事がらを尊重できるはずがない。この模範は親の実践から始まる。