商談やビジネスシーンにおいて、脇役のようでいて実は重要な場となるのが会食です。海外出張の多いNさんは、この会食が苦手でした。
外国の料理は、食材や調理法が日本と異なるのはもちろんのこと、お酒の飲み方、麺類の食べ方、お代わりの作法、食器の扱い方なども違います。まず、その煩雑な作法を覚えることがNさんにとっては苦痛の種でした。
さらにNさんを悩ませていたのが、食事をしながら会話をすることでした。食事中のおしゃべりは慎むべきだと親に躾けられて育ったNさんは、「黙して食す」の姿勢が習い性となり、大人になっても食事中にうまく談笑できなかったのです。
しかし、ある時を境に、この「会食コンプレックス」は解消します。それは、外国人留学生のお世話をしたことがきっかけでした。
留学生は、寿司や天ぷらといった代表的とされる日本食のみならず、ご飯と味噌汁、牛丼やカップラーメンなど、Nさん自身が普段食べているものを「おいしい!」といって一緒に食べてくれました。
一週間、一カ月と、毎日顔を合わせ、同じものを食すというだけで、心の距離が縮まっていくことを感じたNさん。三カ月が過ぎた頃には、兄弟のように近しい感覚を抱くようになりました。会食の意味を得心したのは、まさに、この時だったといいます。
食前の挨拶である「いただきます」という言葉が表わしているように、食事とは、他の生命をいただき、自らの生命をつなぐ敬虔な営みであることは言うまでもありません。幼少期のNさんに対する躾も、そのような意味からなされたものなのでしょう。
しかし、「食」は自他の生命と真向かう厳粛な場であると共に、人と人との心を結ぶ、心地よく楽しい場でもあります。
料理が、国や民族の文化を象徴するものであるならば、それを口にすることは、当の文化を受け入れることを意味します。だからこそ、食事を共にすることによって、お互いの結びつきも強くなるのです。言い換えれば、相手から供される料理をいただくということは、相手自身を受け入れることにもなります。留学生とNさんのエピソードは、そのことを物語っていると言えるでしょう。
また、日本には、人のみならず、神との結びつきを示す習俗が今でも残っています。
たとえば、お祭りが終わった後に神様へのお供え物を皆で食す「直会(なおらい)」や、一方は神様、もう一方は人が使うといわれる「祝い箸」、最初に年神様にお供えした後にいただくとされる、お正月の「おせち料理」がそうです。
私たちは、「一つの味」を共有することで仲間になり、心と心を結んでいくことができます。
忘年会、新年会と、会食が多くなるこの時期だからこそ、改めて「食」の意味を見直してみましょう。そして、生命のもとに感謝しつつも楽しく語らい、美しく食することを心がけたいものです。