心の刀

早起きの刀、というのがある。じぶんは、朝はやく起きて、勉強にゆく。あるいは、しごとにかかる。そうして一定の時間、努力をし、さて終わった。しかしまだ寝ている者がある。それをみたとたん、「このやつ……まだ寝ている」と不快に思う。「じぶんのように勉強してくれるといいのに」といったような心になりがちである。

「自分は、朝はやくから、努力をしてきたのに、こんな、なまけ者がいるから、家の中がだめなのだ」と腹がたってしかたがなくなる。「せめて家の中の掃除でも、ちゃんとしてくれていたら、どんなにかすがすがしいだろうに」と不満をこめた眼で、にらむ。

これでは、せっかく、じぶんが、よいことをしてきても、なんの役にもたたない。なぜなら、じぶんは早く起きて勉強してきたのだというので、そうでない人を、ズバリと斬りつけているからである。

むかし、学校で、修身というものをならった。こうしてはいけない、ああしてはならないと、いっ

たようなものを、たくさん、教えこまれたような気がする。そうすると、それが、いつのまにか、人にたいする責め道具になっている。

ウソをついてはいけない。こういうことがあるならば、それは、じぶんの行なうべきことだと心がけていれば、それで十分なはずである。ところがその修身の徳目が、実行できない人にたいする批判の刀になっていることが多いのである。

こういう場合には、斬りつけられた方では、かならず、たちむかってくるようにできているところが、妙味のあるところだ。たとえば、「こうしなくてはならぬのに、なぜ、しないか」と刀をふりあげると、「いや、しない。しないのが何がわるいか」というように、刃向ってくる。

倫理道徳の実践は、じぶん自身が行なうのが本筋である。他人にその実践を強制したり、また実践できない人を非難攻撃したりすること自体が、倫理道徳の実践ではないのである。

人間は、神ではないから、どうしても、そうした醜悪な面が出やすい。それが人間というものであろう。

もし、そうした刀をぬいても、すぐに、それを引っこめるとか、もし人を斬ってしまっても、早く詫びて、ちゃんとしまつをつけるとか、そうすることのできる人間になることが第一の目標である。

心の問題は、ひじょうにこみ入っているので、そうした自覚をもって、勉強をしてゆかないと、なかなかそれができにくい。ぬいても抜きっぱなし、斬っても斬りっぱなしで、平気な顔をしているが、あとで、ひどい目にあうことに気がつかない。

日常平素から、ちゃんと心がけ、自覚をふかめてそうならないように、勉強をすすめてゆくことが、どうしても必要になるのである。

それは、かならず、なくてはならない努力の目標なのである……。あなたにも。わたしにも……。

(『新世』昭和三十七年十月号より*表記、表現は掲載時のままです。