決断のとき

どうしたらよいのか。右に行こうか、左に進もうか。それとも後にしりぞくべきなのか。ハムレットではなくても、迷うことがいくらでもある。迷いのない生活、悩みのない人生というものは、まずあるまい。
ここにそうした解決への基準というか、判断のよりどころになるものが根本的、基礎的な問題として存在することを、強く思うのである。迷いや苦しみ、悩みに対する心のきめかたの根拠になるもののことである。
まことに平凡な言い方だが、それは、結局「人のため、世の中に役立つため」ということだ。そのようなことなら、前から知っているなどと、簡単に軽視してしまってはあぶない。実際に迷いだし、悩みだすと、人のことよりも、やはり自分のためということが正面に出てくるのではなかろうか。
人から金を貸してくれと頼まれたとする。貸してやりたくはないけれども、貸してやらねば義理がわるいといったケースで迷う。

この場合さっきの基準をもってくる。貸すことがその人のためになるか、ならないか。貸すことによって、かえってその金をムダにしたり、身をもちくずしたりするようなことが明らかであるならば、結局その人のためにはならない。そうした場合には、たとえ義理がたたなくても、きっぱりとその人のために断るのがよい。面目にこだわり、自分にこもって妥協していると、かえって後で自他共に苦しむようになる。
どうするのが隣人のためか、知人のためか、わかりにくいこともあるであろう。そうしたときにはあらためて信頼すべき人に尋ねるのがよい。自分のしようとしていることがいったい人のために、世のために役立つようなことであるかどうか、そこを見つめてゆくとき解決する糸口が開けてくる。
*いつも自分のみをおし立てる人は、きらわれる。自分のためを思うならば、他の人のためを思うべきである。お客のためによい製品をつくるとき自分もそれでもうけさせてもらえるのである。
世のために役立つような仕事をした人が、世の中から尊敬されたり、たいせつにされたりするのである。たとえ一時の紆余曲折はあっても、ながい目でみると必ずそうなっている。
あたりまえといえば、これほどあたりまえのことはない。しかし、このあたりまえのことが、うっかりすると、そう思えなくなり、エゴが先に出てしまい、そのために迷い、苦しむような場合が多いのではなかろうか。
いずれにせよ、より多くの人々のために何とかしたいと目標をしっかりと立て、そこをよりどころとして、多くの意見も聞き、気づいたことを行ないつつ努力していると、少数者にも多数者にも喜んでもらえるような手段がやがて見つかるものである。
一家の愛和も社会の繁栄もこの方向で築いてゆきたい。現代はあまりにエゴが多すぎる。