岡山県で印刷会社を経営するI社長は、新入社員を採用する際に「自分の両親の足を洗い、その感想をレポートとすること」を課題としています。そして、そのレポート十数人分を、『心』と題した冊子にまとめて発刊したのでした。
それぞれのレポートを紐解くと、様々な思いが綴られています。全員に共通して挙げられるのは、「親への感謝の気持ちを感じられた」ということです。
I社長は、企業の価値は「人財」で決まると考えます。社員一人ひとりが会社の財産であり、あえて「人材」ではなく「人財」という文字をイメージしています。
会社は経営者一人で運営することは不可能であり、社員がいるからこそ企業として成立します。皆がお互いに感謝し、思いやりのある行動がとれる人間になってほしいという願いをI社長は持っていました。親の足を洗うことで、「親への感謝の念に気づいてもらいたい」という思いで始めたものでした。
福岡県で保険の代理店を営むY氏(51歳)は、この話をある研修で聞いて衝撃を受けました。ショック状態のような日々が続き、仕事中でも食事中でも、休憩時間でさえも、頭の中を「親の足を洗う」という言葉が行き交うのでした。心の中にもう一人の自分が現われて、「やるのか、やらないのか」という自問自答の状態が続きました。
話を聞いてから一週間後、ついに意を決しました。〈これはやらなければならない!〉。仕事から家に帰り母親に告げようとするのですが、どのように伝えてよいかもわからず、台所に洗面器、タオル、石鹸を用意しました。
その姿を見ていた母親は「何しょっとね」と問いました。Y氏はたった一言、「足を洗いたい」と告げると、椅子に座ってもらい、黙々と母親の足を洗い始めたのでした。
その時の母親は「あー、気持ちよか」を三回繰り返し、その他はいっさい何も言わなかったのでした。そしてY氏自身は母の足を洗う数分間に、今まで気づかなかったことに気づいたといいます。
「なぜこんなことをするのかと問い質されてもおかしくないのに、何も聞こうとしなかった。それは親心であり、言葉にならない深いつながりを感じることができた。自分が思っている以上に親は自分のことをいつでも温かく見守ってくれている」
日頃から母親に対して親孝行しているつもりでいたY氏でしたが、改めて「親への感謝の念」が体の中心から溢れ出してくるような体験を得たのです。
さらには、足を洗い終わった後、Y氏の傍らにそっと立っていた妻は、洗面器やタオルをサッと片づけ、周りに飛び散った水滴を淡々と拭き取るのでした。その姿は美しく、いつも何も語らないものの、Y氏の心と強く結びつき、すべてを察してくれていることが感じられた瞬間でした。いつも支えられていることを実感し、妻への尊敬と愛おしさが込み上げてきたのでした。
いわゆる「良い話」は数多くありますが、そのまま実行に移す人は多くありません。心の声に耳を傾け、自分自身に嘘をつくことなく、何事も実行に移していきたいものです。