太平洋戦争の勃発した昭和十六年に大阪浪速区の木津市場で創業した河幸海苔店。二代目社長として経営の最前線に在った山路卓司氏は、四年前の平成二十年に息子に会社を継承しました。
山路氏が生まれた昭和二十年は、三月の大阪大空襲以降、終戦の前日まで大阪市内は三十回あまりの空襲を受け、大阪市の中心部は見渡す限りの焦土と化しました。闇市が活況を呈する中で、創業者である父は大阪南の地で業務用海苔問屋を再興したのです。
山路氏は大学卒業と同時に産地の問屋に見習い修業に入った後、河幸海苔店に入社。三十三歳になった年に父から「社長を譲る」と言われたのです。自身ではまだ早いと思った氏ですが、〈父が言うのなら〉と引き受けたのでした。
しかし社長就任と同時に取引先の海苔問屋が倒産。四十歳代には経理社員の使い込みや営業社員による裏切り行為などに遭いながらも、三十年にわたり真摯に会社経営を続けてきました。
職人の世界といわれる寿司業界と付き合いを深め、上質の海苔にこだわって業績を上げてきた氏は、「現在は過去の種まきの結果です。要は、電柱が高いのも郵便ポストが赤いのも、すべて社長の責任」と語るのでした。
平成五年十二月に倫理法人会に入会。承継の糧になったのは、『万人幸福の栞』を通しての「信じること」「捨てること」だったといいます。
そんな山路氏が五十九歳の時、会社を息子に譲る決意をしたのです。はじめは取締役部長、専務、社長と順を追って仕事を譲っていきました。平成十六年の『倫理経営原典』の発刊を受け、一貫して同書内にある「故人に対する祈り」の実践を早朝に続けました。
一、貴方の肉体はなくなりましたが、あなたのたましいは、あるいは面かげとして、あるいは言葉として、さらに遺物などとして、その中に生きていることを、ふかく信じております。
二、貴方は、生前は私とくらしを共にされたが、いまや大宇宙にかえり、神のみもとにゆかれた。ついては、いよいよふかく、いよいよひろく私の生活に幸福と恵みと、栄光とをあたえてください
三、もし、困難や苦境にであった時には、私によき智慧をさずけて下さい。そして、かつて二人で、いろいろの苦境をきりひらいてきたように、大きな力をかしてください。
両親の写真に向かい、「跡を継いだ息子が三代目経営者として立派に成長するように見守ってください」と祈ることから一日が始まります。
①信じること②捨てることの二点を、自分自身への戒めとして常に言い聞かせているのです。
故人はいわば見えない存在です。眼には映らずとも、ひれ伏す思いを形に表わす時、祈りは信念となり願いが形となって確立されていきます。
見えないこと、わからないこと、不安定なことに対する際、先に立つのは「できるだろうか。大丈夫だろうか」という不信です。不信を取り除き、胸高鳴り心躍るような高揚を得るには、自分自身が行動に移すことができるかどうかにかかっています。未来を確実に拓いていくために、日々の信念を深めていきたいものです。