朝はやく起きた。すがすがしい気持ちだ。外の掃除をす
る。勉強をしに行ってくる。偉くなったような気分だ。
ところが帰ってくると、陽はもう高くなっているのに、家の者はまだ眠りこけている。
〈なあーんだ。まだ眠っている。馬鹿な…自分はこんな善いことをしてきたのに…〉
こうした気持ちが肚の中に湧く。眠りこけている連中が、いかにも愚劣な者のように思えてくる。自分は善いことをしたのだという快感がひとしきり強くなる。
早く起きて勉強したのは、たしかによいことであった。断じて悪事ではない。しかし問題はその後に生じたのである。
それは寝ている者と比較して、自分を偉く見た点だ。眠っている者を見下し、軽蔑する気持ちが湧いただけ、それだけ自分が偉くなっている。そこが悪いのである。
重いものを持って、困っている老人が目についた。どうしようかとちょっと考えたが、手伝ってやることに決め、駅までその荷物をもってあげた。「ありがとうございます」とていねいに頭を下げられ、すっかり嬉しくなってしまった。
「今日はよいことをしたぞ。年寄りを助けてやったんだ。どうだ、どうだ…」
謙虚さの全くない、このような愚劣な振舞など自分ならぜったいにしないと思っているかもしれない。しかし、助けてやって善いことをしたと、口には出さなくても心の中で得々としていることがあるのではなかろうか。形には表わさなくても心に思っておれば同じことだ。
寄附をしても自分の名前が出ていないと不愉快に思ったりすることがありはしないか。その底に他人に誇る気持ちがあるのではないか。善いことをしても誉められないと、おもしろくないことがありはしないか。その心の奥に自分の善を他人に誇りたい気持ちがあるのではなかろうか。
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一般に誇りをもつことは、それ自体は悪いことではない。しかし誇りは自惚れと紙一重である。自分が善いことをして誇り、正しいといっては他を責め、人の意見を包容できず、受けつけないでいると、それだけでせまい固い殻の中にとじこもってしまう。
〈自分は善いことひとつろくにできない。これではだめだ、なんとかして…〉と思っているほうがむしろ尊い。小さな善をコツコツと積み上げていって、天までのぼるようなことを夢みているよりも、何ひとつできないこの自分の額を低く大地にすりつけているほうが輝かしいのだ。
まわりからも感謝され、真の生き甲斐を見出すみちは、〝たとえいくら善を積んだとしても、ほんとうは何ひとつできてはいない。自分はまことに至らない者なのだ。至らないが、何かさせていただかなくては…〟と低きに居ることだ。その低いことをまた誇りに思うこともなく、ただただそう思っている。その心が尊いのである。