夫婦が暗い顔で向かいあって
いる。二人ともものをいう元気はない。物価の値上がりにつれて、商売もおもわしくなく、家計は苦しく、すべてを語りつくして、なおよい智恵も浮かばないのであった。
妻は帳簿をとじ、ペンも投げだした。夫はやたらにタバコをふかすだけ。柱時計の音が、物淋しく聞こえるだけである。
そのとき、ガラリと裏の玄関の戸がひらいた。「ただいま…」と明るい、男の子の声。近くの学習塾に勉強にいっていた長男が帰ってきたのだ。夫婦の表情に、さっと喜色が走る。
ふすまがガラリとあき、半ズボンに長靴下の愛くるしい顔がとびこんできて、コタツにもぐりこむ。
「お父さん、お母さん、いいことあるよ」。夫婦はさっきまでのふさぎこみはどこへやら、ホッと救われたような笑顔。
「なんなの? ね、なにが、いいことなの」と母親。子どもはにやにやして、「あのね、先生がいってたよ」「塾の先生かい? なんだって。早くいいなよ」と父親。
「とてもよくはたらくってさ」
「だれがよく働くんだね」
「お父さんと、お母さんだよ。先生がこの前お店の前を通ったんだってさ。そしたら、お父さんもお母さんも、とてもよくはたらいてたってさ。それだけだよ。ほめられたから、いいことじゃない」
子どもはひやかすように、親の顔をかわるがわる見上げるのだった。親たちは、愕然としたように顔を見あわせて、心うたれたものを、たがいに探しあてるような眼ざしをかわすのだった。
「ただいま」という明るい言葉にまず救われ、「よく働く」とほめられた言葉から〈そうだ、この苦境をきりぬくためには、けっきょく働きぬく以外に道はないのだ。可愛い、わが子のためにもよし、これから夫婦心をあわせて働くのだ〉と決意をしたのは、この晩からだったのである。そして後に、この夫婦の店はしだいにたち直っていったのである。
神は人間に言葉を与えた。言葉は生命力のあらわれであり、心の表現にほかならない。
人や物を悪くいったり、のろったりしていると、そのようになる。そればかりか、いずれそうした言葉は自分に返ってくる。人をほめたり、物にたいして愛情のある言葉をかけてやっていると、相手がそのようによくなり、それらはけっきょく、自分自身に返ってくるようになるのである。
せっかく仕入れてきた商品にたいして、頭から、「こんなもん、うれるもんか」などとくさしていると、なかなか売れない。ところが、「とにかく仕入れてきた品だ。これはこれでよいのだ。どうかお客さんの役に立っておくれ」と言葉をかけてやっていると、そのうち売れるようになるのである。
こちらの心の動きは、物いわぬ品物や機械などにもつたわる。目にこそ見えないけれども、彼らとて耳をすませて聞いていると思って差しつかえないほどである。