初心を戒める

年度があらたまると、いつも世阿弥の言葉を思いだす。あの「初心忘るべからず」という有名な教えである。
だがこれはずいぶん誤って伝えられているらしい。うぶで、純情な初めの心を忘れるなとか、まじめな覚悟や情熱などを忘るでないといったような意味とは、まったくちがう。
ほんとうの意味は「初心の芸がいかにつたないものであったか、その未熟さ、醜悪さを想いだして、肝に銘ぜよ。そうしておれば現在の芸は退歩しないものだ」といったような意味である。

さて、年の始め、また月や週の始めなどに「今度は……」と決心をしたり、目標を定めたりする。それはよいことだ。何も心にきめず、あてもなくブラブラとすごすよりも、はるかにその人の生活を充実させる。その意味で、はじめの心つまり初心をどう扱うかは重大である。しかしそれとはまた別に、はじめの失敗、稚拙さ、みにくさなどを心にとめて、現在のわざを、生活をよりよく磨きあげようとするのは、たしかに世阿弥の説くようにきわめて大切だ。
むかしは自分はこんな失敗もした。うでもさっぱりだった。なんとまずいことばかりやっていたのだろう……いろいろとこうしたことを思い返しながら、現在のいましめとして事にあたる。それは心をひきしめることで、いい気になったり、得意になったりする心を抑えることだ。
「オレはうまいのだ」とか「いいぞ、いいぞ」などと今思っているのはうぬぼれに過ぎない。もう一段上から見たら、やはり初心者に過ぎないのだ。「自分は初心者だ」これでゆこう。
世阿弥は修業の段階に応じて、壮年、老年にもそれぞれの時期にふさわしい初経験があり、それがまたそれぞれの初心の芸にほかならない、としている。
〝人の命には限りがあり、能の修業には限りがない。各時期のそれぞれの芸を身につけても、さらに老後の段階に似合う芸を習おうとすれば、それは老境の初心の芸である。その老境の芸を初心と覚悟しておればそれまで身につけてきた能がすべて総合され凝縮されて現われる〟
これを要するに毎日毎日、初心を忘れずに励めということになる。これは観世流の奥義ということだが、私たちの日常の仕事にこれをあてはめてゆきたいと切に願う。ヤキトリ一本つくっても、下着の一枚を洗濯しても、初心を忘れまい。もっと広くいえばこの初心を忘れるから、地球は平和になれないのではないか。
 企業経営もそうだ。はじめの稚拙さ、今日の失敗を工夫しよう。セールスも商品や機械類の製造も同じではないか。はじめにやったつたなさを忘れまい。そうして毎日毎日あらためる努力を続けよう。政治も学問も、いや家庭における調理、洗濯、掃除などもすべて同じことだと思う