JR三大車窓の姨捨駅周辺にそびえ立つ姨捨山は、長野県千曲市と筑北村にまたがる山で、民話の里としても有名な地域です。
山頂には、冠着神社を祀る鳥居とトタン屋根の祠があり、祭神は月夜見尊で、山頂で蛍が舞う七月に氏子が登って御篭もりをする祭りが開催され、高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」の句碑もあります。
姨捨山には伝説があります。平安時代の歌物語として残っている『大和物語』が起源とされます。鹿児島県の甑島(こしきじま)にも、姨捨に似た民話が伝承されています。
昔、貧しい村や農家では、食い扶持を減らすために、お年寄りを山へ捨てに行く習慣がありました。その村に、母親と息子の二人で住んでいる農家がありました。ある日、息子は村の掟により、年老いた母親を山へ捨てるため、リヤカーに乗せて、近くの山の頂上目指して登っていきました。登山の途中、後ろで枝が折れるような音が何度かしましたが、気にも留めずに頂上までたどり着くと、辺りは真っ暗になっていたのです。息子は、頂上に年老いた母親を置き去りにし、真っ暗な道を下山しはじめました。すると、道の途中途中の枝が折れているのに気づきました。実は、母親が、自分を捨てる息子が帰り道に迷わないよう、道の要所要所で枝を折って目印をつけてくれていたのでした。
母親の深い愛に目覚めた息子は頂上まで戻り、母親を連れて帰ってひっそりと親子二人で暮らしました。その時の母親が作った歌が残っています。
「道すがら枝折々々と折る柴はわが身見棄てて帰る子のため」
昔話や民話には数々の親孝行に関する逸話が残されています。江戸時代、八代将軍・徳川吉宗の次のような逸話があります。
吉宗は、長野県のとある地域に鷹狩りに出掛けました。吉宗を一度でも見たいと、村中の人が道の脇で吉宗を歓迎しました。その中に、老婆を背負った青年が立っておりました。話を聞くと、老婆は自分の母親で、足腰が弱くなって歩けなくなり、冥土の土産に吉宗を拝みたいので、息子に背負って連れてきてもらっていたのです。それを聞いた吉宗はいたく感激をして、その場で息子に褒美を取らせました。翌年、同じ村へ鷹狩りに出掛けると、老人を背負って立っている若者が沢山いたのです。皆、吉宗から褒美をもらいたいがために、形だけの親孝行をしていたのでした。しかし吉宗は「見返りを求めていても善いことをしているのだからいいではないか。皆に褒美を取らせよう」と、一人ひとりに褒美を渡しました。数年後、その村の若者は、見返りを求めずに親孝行ができる日本一の孝行村になったのです。
自分の命の源は親であり先祖です。感謝の気持ちが深まるとき、八方塞の危機の中でも上下の抜け道から光が射すことが往々にしてあります。常に「おかげさまで」という言葉を口ずさみながら、毎日を明るく過ごしていきたいものです。