都内で中学校の校長をしていたY氏は、A中学校への赴任が決まりました。
その学校は荒れていて、まともに授業ができる雰囲気ではありませんでした。不登校の生徒にも、教師がきちんと対応していない状況でした。
山積する問題に、〈大変な学校に赴任してしまった〉と思ったY氏。実は、家庭の中にも問題が生じていたのです。
家族は五人、妻とはほとんど会話がなく、年頃の子供たち三人とも、親子の会話らしい会話はありませんでした。
ある日、倫理を学んでいる知人とばったり出会い、講演会に誘われました。テーマは「よみがえるか家庭」というものでした。
家庭の不和を抱えていたY氏は、講演会に参加しました。参考になることはいくつかありましたが、その中でも、「『ありがとう』の力」という話が印象に残りました。
家に帰ると、妻から「○○さんから電話があった」とつっけんどんに言われました。いつもなら、「うん」や「ああ」と返すところです。Y氏は講演を思い出し、「ありがとう」と返事をしました。
食事の時も、「取り皿をくれるかい?」「はい」「ありがとう」。「お醤油とって」「どうぞ」「ありがとう」と、必ず添えるようにしたY氏。たった一言ですが、この日から夫婦の関係に変化が生じました。少しずつ夫婦の会話が増えてきたのです。
それまでは一方的な言葉の投げかけだったのが、「ありがとう」と受け止めることで、夫婦の心の距離が縮まったのかもしれません。次第に妻の表情が明るくなり、子供たちにも、笑顔が多くなってきました。
もしY氏が、講演の後、「今日は良い話を聞いたぞ。これから『ありがとう』と言えよ」と家族に押しつけていたら、どうなっていたでしょう。会話どころか、家庭の雰囲気はますます暗く、ギスギスしたものになっていたはずです。
良い話を聞いて、それを実際に実践したところから、家族に変化が生まれました。そして、父親の言葉一つが、家族を大きく変えることに驚いたY氏でした。
Y氏が赴任した中学校の雰囲気も、薄皮をはがすように変化していきました。赴任当時は〈どうしたら子供たちが変わるか〉と考えていたY氏ですが、〈まずわれわれ教師が変わらなければいけない〉と、毎週、職員会議を開くようにしました。また、不登校の生徒の家には、Y氏自ら足を運んで声をかけるようにしました。
ほかの先生も、根気よく生徒の話を聞き、アドバイスを送るようになりました。翌年、三年生全員が進学や就職を決めて、無事卒業式を迎えることができたのです。
言葉の力は存外に大きいものです。また、発する人の立場によって、その影響力は変わります。
特に家庭や職場で上の立場の人が発する言葉には、場を一変させるほどの力があります。プラスの言葉で、家庭や職場を明るくするようにしたいものです。