飽きこそ転機

カレーライスとカツライスだけをいつも昼食に出している洋食屋があった。この店のメニューはこれだけだった。学生のN君は、この二つを交互に食べてきたが、いつも同じでつまらない、とうとう飽きてしまった。
「こうなったら、自分で何か作るしかない」。N君はそう結論づけて、その年の二月、親しくしているその店の調理場に入らせてもらい、自己流の料理を作ってみた。
 皿盛りのご飯を丼に移し、その上にカツライス用のカツをのせ、メリケン粉をといてソースを煮つめた汁をかけた。そして青エンドウを上にあしらってみた。食べてみると、なかなかいける。
「こりゃ、なんというのか、うまいぞ」とまわりからいわれ、N君は、「うーん、そうだな、カツ丼だ」と即座に答えたのだが、この「カツ丼」は大当たりで、たちまち銀座や日本橋の食堂でも作る店が続出し、ほどなく大阪にも広がったそうである。カレーライスとともに、もっともポピュラーな国民食となっているカツ丼は、一九二一年にこうして生まれ出たのであった(『早稲田大学史』による)。
 ここで注目したいのは、従来のカツライスに飽き飽きしたとき、新しいカツ料理が作られたということだ。同じものを見たり、聞いたり、食べたり、いろいろやっていると、飽きがくる。だがそこにこそ、その飽きを活用するか、あるいはそのままで過ごしてしまうのか分かれ道があるのである。
 同じようなカツライスを毎日食べていても飽きない人があるだろう。あるいは飽きていても、我慢して食べている人もあるだろう。Nさんの場合は、飽きたのである。何か新工夫はできないものか。そうした単純な考えの中に、ヒントがひらめいたのである。
 発明とか発見とか、そしてまた広い意味においての成功などというものは、こうした飽きや苦難の中から生まれてくることが多い。ぼんやりと飽きの中に、ただ飽いてアクビをしているだけでは改良改善はできない。向上もない。
 職業に飽きがきたらどうするか。「飽きずにやるのが商いだ」という人もあるが、転職もひとつの道であろう。しかしたんに飽きっぽい性格ではどの職業を選んでも、飽きがきて、次から次へととどまることがない。自分がやらねばならない今の仕事、それに飽きがきた。どうしたらよいか。
そのときこそ進歩か、退歩か、それとも現状維持のままか、それらを決する重大な分かれ道に立っているのである。
もし飽きがきたら、その中に前進の道ありと心得て、その仕事をよく見、よく感じ直すことだ。「アーアー、また掃除か」と思うようだったら、そこにこそ進歩改善の妙法ありと気持ちをかえ、気をつけてのぞむ。すぐにその妙法は得られなくても、そう気分をかえただけでも楽しくなる。
全く同じことを続けてやる一貫不怠の道のほかに、こうした飽きを活用する道も厳然として存在するのである。