待つ時間を活かす

歯の治療にゆく。患者が大勢いるので、待たねばならぬ。
覚悟はしてきたものの、用事は山ほどあるので、いらいらしてくる。時計を見上げては、まだかまだかと気をもむ。ようやく自分の番。だがものの数分とかからぬあっさりした診察。がっくりしたような気持ちで帰途につく。
以上は一例であるが、人生には待たねばならぬことがずいぶんとある。乗りもの、見せもの、売りもの(買いもの)……、順番や時機やチャンスや、そのほか数えあげてみると、きりがないほど待つ時間が多い。人生の五分の一ぐらいは、何やかやで、待って暮らさねばならぬのではないか。
もっとも成功するのを待つとか、死を待つとかいう問題を加えると、人生の大半、いやそのすべてが待つ時間だともいえる。死を好んで待つ者はいないだろうが、じつのところ、みな墓場に行くのを待っているのだ。

待つ時間は、わがままを捨てる稽古のときである。急患でないかぎり順番が来なければ歯の治療はしてくれないのだから、いかにジタバタしたところで何の役にもたたぬ。その間、何か為になることをやっておればよい。それを辛抱とか、我慢とかするのはおろかである。では何をやるのか。
待っている時間というものは、すくなくとも自分の時間だ。本を読む。考えごとをする。何でも自分の勝手にできる。座禅をくむつもりになったらどうか。腰かけていようと立っていようと、とにかくこの時間を十分に利用して、生活プランの再検討をするなり、明日のしごとの段どりを練り直すなり、フルに活用してはいかがか。それができなければ、無念無想になる稽古でもしたらどうか。
あれこれと生じてくる雑念を、もう一歩高い立場で、よく見つめる。なぜ、そうした雑念がおこってくるのか。今自分がもっとも気にしていることは何なのかなどと反省してみる。金がほしいと思っている。では、どうしたらもうけることができるか。逆に節約できるものはないか。こうしたことは雑念とはいえないかもしれないが、改めて検討してみるのもよかろう。
さらには数歩すすんで、「いつまでもその時が来るまで待つ」という強い精神を養うチャンスだと、よろこび勇むことはできないか。ここに、わがままを捨てる稽古の意義があると思い直すことはできないものか。
人は誰でも死を待つ身なのである。いつかは死なねばならぬ。おぎゃあと生まれたときから、自分の死を待ちながら、生きているのがお互いだ。死に急ぐ必要もない。だが死について、人間はその待つ時間を、なんとかしてひきのばそうと努力する。皮肉なものだ。
平均寿命が伸びたといっても、百年も二百年も伸ばせそうにない。だから死を待つ自分として、それまでの生の時間をいかに活かすかというのが私たち共通の問題である。つまり、いかに充実して生きるかである。