今週の倫理

ひと晩たって、朝起きてみたら金持ちになっていたという。
土地が売れた。宝くじに当たっていた。遺産がころがりこんできた。
その他、何もせず儲けたと、人から羨ましがられるようなことは多い。
「いいことをしやがったなあ」
「うらやましいわねえ」
だが、ほんとうにそうであろうか。それ相当のすべきことをやり、働いた結果として当然の成果を得た場合は、幸福である。
しかし、何もせず、棚からボタモチ式に与えられた幸福は、まず永続きしない。
「ただで貰うことほど高くつくものはない」という言葉があるが、労せずして得た金銭は、身につかない。
それだけではなく、かえって身をほろぼすもとになりかねない。
土地が道路になり、国や自治体から多額の金を貰ったりした家庭で、
金銭財産をめぐるトラブルが続き、不幸のドン底に落ちたというような事実は、いくらも見聞することができる。
幸福というものは、自分で造りあげるところに値打ちがある。人から貰った幸福は、ほんとうの幸福とはいえない。
親から貰った健康とか、よい性質といったようなものは、ありがたいにはちがいないが、
それらを貰っていて「自分はほんとうに幸福だなあ」といった喜びにひたれるか。
いつも健康な人は健康の幸福をほんとうには知らないという。
自分が病気になるとか、人が苦しんでいるのを見て〈気の毒だ。それにひきかえて自分は何と幸福なのだろう〉と、
あらためて親のありがたさが自覚できる。
生まれた時から金持ちであると、金の尊さ、ありがたさがわからないので、ほんとうに幸福とはいえないのだ。
もっと端的にいうと「実践のないところには幸福はない」さらには「実践せずして救いはない」のである。
通俗的には「額に汗せずして真の幸福は味わえない」ということだ。
ここにいう実践とは政治的、経済的、芸術的、学問的、家庭的、宗教的、倫理的、その他にわたる自らの実行のことである。
実行も何もしないで政治家としての成功はない。学問もせずに学者にはなれぬ。
ピアノの練習もせずに、ピアニストにはなれぬ。芸術の修練をしない芸術家はいない。
また、ろくに信仰心ももたずに、宗教では救われないとこぼす人も多い。
念仏も唱えず、題目もあげず、行も何らしないで「宗教ではダメだ」などといっている。
倫理道徳は堅苦しくて苦手であるとか、また徳福一致の〝倫理〟でも救われないとか、
いい加減なことをいう人があるが、そうした人たちは、いったい何を実践したのか。
親を大切にするとか、配偶者を心から愛するとか、わが子を正しくそだてるとか、そうしたことに、どれほどまごころを傾けたのか。
「いくらやっても」というが、その「いくら」とは何をいうのか。徳福一致の〝倫理〟とは、その実践にこそ意義がある。

本当の幸せとは自分の努力により掴み取るものですね。
日々の努力と倫理の実践を大事にします。