Y氏はある店の社長だが、几帳面な性格で、店員のだらしのないのが、はなはだ気にくわない。
中でも、洗面所の水道栓のひねりが不十分で、使ったあとで、
いつもたらたらと水が漏れているのが、不愉快でならない。
いつも店員に注意するのだが、どうしても励行されない。やかましく叱ると二、三日は
洩らさないが、やがてまたたらたら流すようになる。
Y氏はいまいましくてならなかったが、ついにある時、ほん然として悟った。
自分のこのやり方は、まちがいだ。今までは店員たちをやかましく叱ってばかりいたが、
今後はまず自分から進んで喜んで洩れている水道栓をしめるようにしよう。
彼はこれを実行した。目下に対して不平を捨て、洩れているところを見ると、
にこにこした気持ちで、行って固くしめ直してやる。けしからん、
などといった気持ちは少しも起こさない。母親が子どもの不始末を喜んでぬぐってやるような、
そうした心にも似て、心から温かくやり続けた。
何日かたってふと気がついてみると、いつのまにか水を流し放しにする者が、
非常に少なくなっているではないか。今日は流れていないな、
と洗面所に行って気づくことが多くなり、Y氏は狐につままれたような気持ちだった。
驚くべき変化だった。一体どうしたのであろうか。
目上が目下に対してもつべきものは、愛である。愛は抱く、温める、そして万物を産み育てる。この愛がまた慈ともなり、目下に対して第一にもつべきものであるとは一応誰しも知ってはいる。しかし現実には、いかにするのが愛であり、慈であるか、案外分かっていない。
実践は簡単なところから始まる。 言うことをきかない目下を責めないこと。憎まないこと。
不平不満をこちらが抱きながら、欠点を変えさせよう、改めさせようとしないことである。
Y氏のごとく目下のだらしなさを、喜んで始末してやることである。
そうした心になった時、事情は好転してくる。
社長が喜んで水道栓をしめているのを見て、社員は心打たれる。
目下の非は己が非の映れるなりととる心こそ、愛の表われである。
この愛の真心を知った時、人は自ずからにして変わらざるを得ない。感動はここに発する。
感激はここより湧く。さらに目上のこうした行動を見たり、聞いたりしなくても、真心は、
自然に目下に伝わるのである。
目下の人の行ないは、目上の心意の反映である。すなわち対者我影(たいしゃがえい)である。
社長―社員、店主―店員といったような、上にある人と下にある人とは、
お互いにそれぞれ反映し合っている。
こちらが憎いと思えば、下もそうなる。一方が怒れば、他方も腹立ち、互いに複雑微妙に、
また単純無雑(むざつ)に相映(あいえい)じている。
上下の関係が緊密になればなるほど、その反射はますます緊密となってくる。
これを知らずに下の人だけ責めるのは、もっての他である。
この意味において、目下の人は目上のよき先生である。願ってもなき良師である。
心から慎んで教えを乞わなければならない。
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